「美しい日本語」「美しい言葉」について、毎日かなり意識的に暮らしているつもりなのですが、ぜひとも「美しい日本語」だとして紹介したい言葉が、次から次へと浮かんでくるわけではありません。

 

おそらくは「美」というものは、美しいと感じている時にだけ「ある」のであって、感じていない時には「ない」のでしょう。

 

それに「美しい」というのは「綺麗(きれい)」というのと違っていて、ただならぬ感じ、非日常的であり、危険な香りがするものなので、ひんぱんに感じていたら、一つ間違えば、心が壊れてしまうかもしれないのです。

 

ドストエフスキーは「美は謎です」(白痴)と言っていますが「美は怖ろしいものだ」(カラマーゾフの兄弟)とも語っています。

 

ですから、そう簡単に「美しい」という言葉は使いたくありません。少し大げさかもしれませんが、本当に美しいと感じる瞬間は、長い人生の中でも、何回もあるものではないのです。

 

ただ、このまま世の中が、進んでゆくというか、流れてゆきますと、いずれ死語になってしまう、大事にしたい言葉は確実にあるのです。

 

そうした、消えゆくかもしれない「尊い言葉」を「美しい言葉」というのならば、いくつかあげることはできます。

 

慈しむ」もまた、死語になりかけている、貴重な言葉だと言えます。

 

「慈しむ」を、大辞林は以下のように説明しています。

 

いつくし・む  【慈しむ】

 

〔「うつくしむ」の転〕かわいがって、大事にする。

「我が子のように―・む」

 

また大辞泉の解説はこうです。

 

いつくし・む【慈しむ/▽愛しむ】

 

[動マ五(四)]目下の者や弱い者に愛情を注ぐ。かわいがって大事にする。「わが子を―・む」

 

◆平安時代の「うつくしむ」が、「いつ(斎)く」への連想などの結果、語形が変化し、中世末ごろ生じた語。

 

「慈しむ」に近い言葉としては「愛する」「 いとおしむ」「 可愛がる」があります。

 

私たちが日常でひんぱんに使うのは「好き」という言葉でしょう。「愛している」は、よく耳にしますが、毎日使うかというと、そうでもありませんね。「好き」よりは「愛する」と言った方が、特別な感じはしますよね。

 

では「慈しむ」はどうでしょうか。おそらく、ほとんど使わないでしょう。

 

しかし、何かを大切にしたい思いや、本当に大事にしたいという気持ちを表す時、「愛する」というよりも「慈しむ」と言ったほうが、自然だと感じるのは私だけでしょうか。

 

「愛する」が少し概念的であるのに対し、「慈しむ」は触感的というか、手でそっと触って愛情を深めるといった身体感覚的な言葉のような気がするのです。

 

二十代の頃、詩の同人誌を主宰していた頃、同人の一人が、しばしば「慈しむ」という言葉を使っていたのを想い出すことがあります。

 

言葉は使われなければ、死んでいるも同然。「慈しむ」という言葉を死なせないためには、日常で使わなければなりません。

 

そのためには、本当に「慈しむ」気持ちを抱くことから始めるべきなのでしょう。