金子みすゞの「こだまでしょうか」というをご紹介します。

 

【動画】(詩の朗読)金子みすゞ「こだまでしょうか」

 

こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」という金子みすゞの詩集を読んでいます。

 

【動画】金子みすゞの詩「こだまでしょうか」の最後の一行「いいえ、誰でも」の意味は?

 

私の自宅から徒歩1分のことろに、巨大なTSUTAYAがあり、その1階に精文館書店領家店があるのですが、その大きな本屋さんには、金子みすゞのコーナーが設けられていました。

 

金子みすゞは、現在の日本でもっとも人気の高い詩人であることは間違いなさそうです。

 

このブームのきっかけは、東日本大震災後にテレビで放送されていた社団法人「ACジャパン」のCMであったことは、多くの方がご存知かと思います。

 

このCMで使われている金子みすゞの「こだまでしょうか」という詩の全文は以下のとおりです。

 

 こだまでしょうか

 

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

 

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

 

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

 

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

 

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

 

最後の一行「いいえ、誰でも。」の意味は?

 

「いいえ。誰でも。」の解釈が難しいようです。人それぞれ、自分が読みたいように読めばいいと思います。

 

ただ、自己啓発系の人の解釈は、やや「前向き」で倫理的過ぎるように感じました。金子みすゞは決して道徳的な詩人ではありません。

 

道徳はともすれば人生の「闇」の言及を避け、「光」を強調しがちですが、金子みすゞという詩人は、明らかに「闇」の側面が強いのです。

 

闇が深いので、光が際立っている、それが金子みすゞの世界だと言えます。

 

光はありますが、基調は暗く、もの悲しい旋律を奏でているのです。

 

また、人生の教訓をたれる(他者に説教する)ような詩人が、高く評価されるはずもありません。

 

素直に「寂しさ」を表白したのが、最後の一行「いいえ。誰でも」だと私は思っています。

 

人と人は「こだま」のように、同じ言葉が返ってくるように、心と心が通じればいいのだけれど、現実はそうはならないことが多いので、とっても寂しいと、金子みすゞは嘆いている。

 

この詩は極めて寂しい調子の歌であって、前向きな明るい人生肯定を大らかに歌い上げているのでは決してない。

 

しかし、その中でも、希望への願いを胸に秘めているので、金子みすゞの詩に、人は救われるのです。

 

「こだま」のように人と人とはなかなか響き合えないから、みんな誰でも寂しいけれど、通じ合いたい、友達になりたい、心と心でつながりたいと誰もが願っている。

 

誰でも独りぼっちで寂しい。そして、おそらくは「こだま」のようには完全に心と心が同じように響き合えることはないだろう。けれど、それが人生だし、人は違っていても、通じ合えることもある、友達にだってなれる、そんな日が来るとどこかで信じている……。

 

このように、おずおずと気弱だけれど、祈るように人と人との通じ合いを願っているというのが、金子みすゞの心情ではないでしょうか。

 

「最後の一行の意味」が悩ましい、金子みすゞの詩には「さびしいとき」もあります。

 

金子みすゞの詩「さびしいとき」

 

金子みすゞの人気は中原中也をもしのぐ?

 

金子みすゞは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。26歳の若さで死ぬまでに、512編もの詩を綴ったとされています。

 

日本近代詩を振り返ると、多くの優れた詩人が輩出していることに驚きます。中原中也、立原道造、八木重吉などは、その代表的詩人で、学生時代に文庫本が擦り切れるまで愛読した記憶があります。

 

金子みすゞの詩を八木重吉が論評したとしたら

 

ただ、その頃は、金子みすゞは読まなかったのです。たぶん、新潮文庫や角川文庫から出版されていなかったからでしょう。

 

詩人同士を比較することに意味があるとも思えないのですが、今回「金子みすゞ詩集百選」を読んでみて、金子みすゞの詩は、中原中也や八木重吉よりも、さらに高く評価されてゆくのではないかと感じました。

 

その理由は、限りない人間への優しさが詩からにじみ出ていること。

 

中原中也、立原道造、八木重吉にも、傑作と呼ぶにふさわしい詩があります。しかし、自分自身の歌を歌うことに性急すぎて、人間への愛おしみよりも、自己愛の方を強く感じることが多いのです。

 

金子みすゞは献身的な愛の詩が多数あり、その点において、他の近代詩人よりも優れているのではないでしょうか

 

その愛の語り方も、スローガン的に打ち上げるわけではなく、告白するわけでもなく、客観的に小さな宇宙をつくって、そこで慈しみの気持ちをさり気なく表出しており、そのことによって、より詩としての完成度をも高めているのです。

 

金子みすゞの詩にある、徹底感、透徹感、透明感は、いったいどこから来るのでしょうか。

 

類まれな詩魂から湧き出た言葉の結晶というよりも、金子みすゞという人が、詩の神様に命を捧げた結果として得られた(あるいは与えられた)詩空間、それが金子みすゞの詩であると言いたい気がします。

 

自分の命と引き換えに、金子みすゞは珠玉の詩篇を、私たちに与えてくれました。その詩は永遠不滅の光彩を放つものであり、私たちの心の糧となることは言うまでもありません。

 

金子みすゞの詩は、風花まどか大学の教科書…

 

「風花まどか大学」の「まどか学」と「詩学」は、金子みすゞのポエジー(詩精神)が根底に息づいています。

 

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