金子みすゞの詩を八木重吉が論評したとしたら
先日、金子みすゞの詩について触れましたが、驚くほど多くのアクセスをいただきました。
その記事はこちら→こだまでしょうか、いいえ、誰でも。 金子みすゞ詩集百選
記事内で、詩人・八木重吉の名前を上げましたが、金子みすゞと八木重吉には共通点がある気がしてならないので、それについて、書いてみることにします。
2人の第一番目の共通点は、ほど同時代を生きていること。
八木重吉 1897(明治31)~1927(昭和2)
金子みすゞ 1903(明治36)~1930(昭和5)
2番目の共通点は、短い生涯(八木重吉29歳、金子みすゞ26歳)を慎ましやかに終えたこと。
そして、3番目の共通点は、その詩にある「童子性」です。
詩人は幼子のような純粋な魂を持っているとは、よく言われることですが、八木重吉と金子みすゞの詩には、特に童子性が強いと感じます。
一方、現在の2人を比較しますと、金子みすゞの読者は年々増えている傾向にあるようですが、八木重吉の愛好家は減少傾向になるようです。
というのは、八木重吉詩集の文庫版が、絶版になっていることから、その傾向は如実にうかがわれます。
しかし、それは八木重吉の詩の評価が下がっているのではなく、八木重吉がマスコミに取り上げられることがないからだと思われるのです。
ここで八木重吉の詩としては、あまり知られていないのですが、たいへん親しみやすい佳作がありますので、ご紹介しましょう。
八木重吉には「秋の瞳」と「貧しき信徒」の2冊の詩集がありますが、以下の詩はこの詩集には収録されていません。タイトルは「鞠とぶりきの独学」と言います。長いので一部を省略して掲載。
鞠とぶりきの独楽
てくてくと
こどものほうへもどってゆこうこどもがよくて
おとながわるいことは
まりをつけばよくわかるあかんぼが
あん あん
あん あん
ないているのとまりが
ぽく ぽく ぽく ぽくつかれているのと火がもえてるのと
川がながれてるのと
木がはえてるのと
あんまりちがわないとおもうよぽくぽくひとりでついていた
わたしのまりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかえしてくれるように
そんなふうになんでもいったらなあぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついてると
にがい にがい いままでのことが
ぽくぽく
ぽくぽく
むすびめが ほぐされて
花がさいたようにみえてくるかんしんしようったって
なかなか
ゆう焼のうつくしさはわかりきらない
わかったっていいきれない
ぽくぽく
ぽくぽく
まりをついてるとよくわかるまりを
ぽくぽくつくきもちで
ごはんを たべたいぽく ぽく
ぽく ぽく
まりつきをやるきもちで
あのひとたちにものをいいたいまりと
あかんぼと
どっちも くりくりしてる
つかまえ どこも ないようだ
はじめも おわりも ないようだ
どっちも
ぷくぷく だひいとおよ
ふうた
ふうたあよ
み いい
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
まりをついてると
いったい
数《かず》というものが どうして できたか
なぜ 数というものは あったほうがいいんだか
そんなわけがらが
ほんのりと わかってくる
いかがでしょうか? かなり良いでしょう。
全文は以下の古本で読めます。
注目すべきは、八木重吉自身が、この未刊詩篇につけている「憶え書」です。以下、その言葉を引用してみます。
まことの童謡のせかいにすむものは こどもか 神さまかである。
「童謡」というキーワードが登場しました。八木重吉と金子みすゞを結びつける強力なキーワード、それが「童謡」なのです。八木重吉は生涯、こどもと神様への憧れを歌い続けたといってもいい詩人でした。おそらくは、金子みすゞも、同じだったのではないでしょうか。
ふと、ここで自分でも意外な衝動にかられました。
「もし、八木重吉と金子みすゞは親交があり、いえ、親交はなくても、八木は金子の詩を読んでいて、金子みすゞの詩の論評を述べたとしたら、どんな発言をしただろうか」
金子みすゞは、こどもの国と神様の国を行き来していたというのか、それとも、金子みすゞは神の子であったというのか……自由に想像してみると楽しいかもしれませんね。
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2011年9月3日 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:詩
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。 金子みすゞ詩集百選
「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」という金子みすゞの詩集を読んでいます。
私の自宅から徒歩1分のことろに、巨大なTSUTAYAがあり、その1階に精文館書店領家店があるのですが、その大きな本屋さんには、金子みすゞのコーナーが設けられていました。
金子みすゞは、現在の日本でもっとも人気の高い詩人であることは間違いなさそうです。
このブームのきっかけは、東日本大震災後にテレビで放送されてた社団法人「ACジャパン」のCMであったことは、多くの方がご存知かと思います。
これがその話題となったテレビCM「こだまでしょうか」。
金子みすゞは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。26歳の若さで死ぬまでに、512編もの詩を綴ったとされています。
日本近代詩を振り返ると、多くの優れた詩人が輩出していることに驚きます。中原中也、立原道造、八木重吉などは、その代表的詩人で、学生時代に文庫本が擦り切れるまで愛読した記憶があります。
ただ、その頃は、金子みすゞは読まなかったのです。たぶん、新潮文庫や角川文庫から出版されていなかったからでしょう。
詩人同士を比較することに意味があるとも思えないのですが、今回「金子みすゞ詩集百選」を読んでみて、金子みすゞの詩は、中原中也や八木重吉よりも、さらに高く評価されてゆくのではないかと感じました。
その理由は、限りない人間への優しさが詩からにじみ出ていること。
中原中也、立原道造、八木重吉にも、傑作と呼ぶにふさわしい詩があります。しかし、自分自身の歌を歌うことに性急すぎて、人間への愛おしみよりも、自己愛の方を強く感じることが多いのです。
金子みすゞは献身的な愛の詩が多数あり、その点において、他の近代詩人よりも優れているのではないかと主張したくなる気持ちを抑えることができません。
その愛の語り方も、スローガン的に打ち上げるわけではなく、告白するわけでもなく、客観的に小さな宇宙をつくって、そこで慈しみの気持ちをさり気なく表出しており、そのことによって、より詩としての完成度をも高めているのです。
金子みすゞの詩にある、徹底感、透徹感、透明感は、いったいどこから来るのでしょうか。
類まれな詩魂から湧き出た言葉の結晶というよりも、金子みすゞという人が、詩の神様に命を捧げた結果としれ得られた(あるいは与えられた)詩空間、それが金子みすゞの詩であると言いたい気がします。
自分の命と引き換えに、金子みすゞは珠玉の詩篇を、私たちに与えてくれました。その詩は永遠不滅の光彩を放つものであり、私たちの心の糧となることは言うまでもありません。
「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」は「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。―金子みすヾ詩集選」で、読むことができます。
個々の詩についての感想も書きたいのですが、それは次回とさせていただきます。
さて、以前この風花未来.comで取り上げたのですが、坂村真民という詩人の詩を読んだことがありますか?
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2011年8月19日 | コメント/トラックバック(0) |
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