小津安二郎の作品を珍しく、続けて見ました。今回は田中絹代が主演した「風の中の牝鶏」です。 

 

古い映画です。小津安二郎の戦後2作目だとか。

 

確かに、戦後女性の苦しい立場が描かれていました。

 

だからといって、小津美学から逸脱した映画かというと、決してそうではありません。

 

逸脱どころか、私はこの「風の中の牝鶏」を見て、初めて小津安二郎監督が映画で何を表現しようとしたのかが、ハッキリとわりました。

 

この作品だけでなく、全作品で小津が表現したかったことは、おそらくはすべて同じです。

 

それはどういうことかと言いますと、こういうことではないでしょうか。

 

人間というものは本来は狡くて卑しいものであり、人間界はドロドロしていていて息苦しいものである。だからこそ、自分(小津安二郎)は、人間の中の奥底にある、清き泉から、聖なる水をすくい上げたい。

 

弦楽器の弦をかき鳴らすように懸命に、人間の中にかろうじて流れている、気高き血を絞り出したい。

 

小津監督は、上のことをしたいがために、永遠の名コンビとなった、笠智衆原節子に崇高な調べを演奏させたのです。

 

笠智衆と原節子の二重奏を聴くと、心洗われるのは、俗悪な人間界では考えれないほど澄んだ聖水を飲んでいるかのように感じるからです。

 

要するに、現実世界では絶望的なまでに希少である、純なる人の美しさを、精妙な手つきで、小津は掬い上げ、人の魂を救うことに成功したのです。

 

世の中は濁流。人の心はどぶ川です。清いものは、瞬く間に、濁った流れに飲み込まれてしまいます。だから、この世ははかないのですが、それでは人が生きる甲斐がない。

 

そのために、笠智衆と原節子という名コンビを生み出すことで、小津安二郎は、宗教音楽を奏でるように、哀しき浄福の世界を描き出したのだと思われるのです。

 

繰り返します。「風の中の牝鶏」を見て、私は小津安二郎が、人間の中にかろうじて残っている聖なるものを、必死で絞り出そうとしている姿が、くっきりと見えたのでした。