今回は山元加津子さんの「灯りが見える」という詩をご紹介します。

 

灯りが見える

 

まばゆい日の光の中では

どこにあるのかえさえも わからなかった

あの小さなともしびが

暗闇の中…… 今は見えるよ

 

あのあたたかな小さな炎は

どうして こんなにも

僕の心を 動かすのだろう

 

もし僕が こんなにつらい毎日を 少しもおくってなかったら

ふと僕を 見つめてくれた君の優しいまなざしに

気がつけなかったかもしれないね

 

ひょっとしたら、ひょっとしたらなんだけど

僕の苦しみは

君の優しさを教えてくれるためにあったのだろうか

 

 

この「灯りが見える」は、山元加津子さんの「心の痛みを受けとめること」という本に掲載されています。

 

いわゆる「かっこちゃん」節ですね。

 

ここにあるのは、究極の人生肯定。

 

そのポジティブさは突きぬけており、お日様のような眩しさと温もりを与えてくれます。

 

金子みすゞの詩も好きですが、山元加津子さんの世界と異なる点があるのです。

 

金子みすゞに「明るい方へ」という詩があります。

 

⇒「明るい方へ」の感想はこちらへ

 

この詩を読むと、人生における光よりも、人生の深い闇、絶望と悲哀の方を強く想起せざるを得ません。

 

ところが、山元加津子さん世界は影がない(あっても感じないほど)光に満ちているのですね。

 

文学的な価値評価をするとなれば、もちろん金子みすゞの詩は紛れもない文学であり、山元加津子さんの詩は文学とはいえないかもしれません。

 

でも、作品は読む人があるがままにそのままに受けれればいいので、私自身は、山元加津子さんの詩を文学という基準から判断することに意味はないと感じています。

 

笹田雪絵ちゃんの詩も、文学として認めない人もおられるかもしれません。

 

今の私としては、詩はもう限界まで衰弱しており、詩心の発露を言語化した作品を、文学と非文学に仕分ける余裕はない、というのが正直な思いです。

 

大事なのは、誰の心にもある「詩心」を回復させること。想い出していただく、取り戻していただくこと。

 

山元加津子さんつながりで、笹田雪絵ちゃんを知ったのですが、雪絵ちゃんの詩は、山元加津子さんの文章とは、根本的に性質を異にしています。

 

雪絵ちゃんの文章は詩として書かれていないのに、すべてが詩になっているのですね。

 

雪絵ちゃんの詩は「詩心」の十全たる発露というより素直な表白です。

 

その素直極まりない独り言が、胸を打つ……不純物が全くないために、そして何よりも現代人が最も苦手である自己肯定感を、何の装飾もなく鮮明に定着している……だから読む側が感動できる……それが笹田雪絵ちゃんの詩だと言えるでしょう。

 

読者を心地よくさせてあげよう、癒してあげようというサービス精神は、詩には必要ないのです。

 

そういうエンタメ魂は、詩としての存在を根底から揺るがしてしまう……。

 

また、文学者を、詩人を自称する人たちには「詩の神」は振り向きもせず、雪絵ちゃんのところに降りてきた、微笑みかけてきた……という事情を、現代詩人を名乗る人たちに気づいていただきたい。

 

というか、ほとんどの人たちは「詩心」を忘れており、その存在にも気づいていません。

 

誰の心にもある「詩心(慈愛と調和の世界)」を鮮明に想い出させてくれている、その一点においても、笹田雪絵ちゃんの残した文章は読み継がれてゆく価値があるのではないでしょうか。

 

山元加津子さんは、雪絵ちゃんという「詩の化身」の存在を、おとぎ話のように温かく語ってくれる伝道者だと私個人は思っています。

 

ところで、山元加津子さんの講演会で、いつもジャングルジムの一番上の登って、太陽に手のひらをかざしている子の話が出てきました。

 

その話を聞いたとき、これって僕の話じゃないかって感じたのです。

 

ジャングルジムの天辺に上がってお日様を見ている子も、その子を見守っている少女も、私自身の分身だと思ってしまったのでした。

 

そして、その子のように、僕もまたお日様に手をかざしていたい、いつまでも……と切に願っていたのです。