北原白秋の「この道」という詩をご紹介します。
この道
この道はいつか來た道、
ああ、さうだよ、
あかしやの花が咲いてる。
あの丘はいつか見た丘、
ああ、さうだよ。
ほら、白い時計臺だよ。
この道はいつか來た道、
ああ、さうだよ。
お母さまと馬車で行つたよ。
あの雲もいつか見た雲、
ああ、さうだよ。
山査子(さんざし)の枝も垂れてる。
ネットで調べていたら「北原白秋は大正14年(1925)夏、鉄道省主催の「樺太観光団」に加わり、その帰りに 歌人の吉植庄亮と約半年間、北海道を旅行します。その時の印象をもとに作った詩です」という解説を見つけました。
この解説が正しいとすれば、北原白秋の「この道」は、フィクションということになります。
嘘をついているという意味では、もちろんありません。
旅をして、「郷愁」をテーマに、見た風景を小道具に使って、完成度の高い詩を作った、それだけの作品だとすると、何だか味気ないものを感じてしまいます。
さすがは北原白秋、その言語感覚、形式美、音楽性は見事。素直に読めば、その抒情に酔いしれることができます。
しかし、詩に「切実なるもの」が感じられません。
「切実なるもの」を求めるべきではない、ただ愛唱するだけのよくできた詩作品だとすると、あえて、私のこのブログで紹介するまでもない、とも思われるのですね。
ただ一点、金子みすゞの「このみち」と対比してみると、鮮明に浮かび上がってくるものがあり、その意味で、北原白秋の「この道」を読むのも有益だと感じました。
形式として整っていて、音韻も美しく、言葉もきれい……それだけでは、詩として物足りない、というのが私の詩観です。
形式的にはほころびがあっても、内側からほとばしる「切実なるもの」があれば、私はそちらの詩に心惹かれます。
もちろん、北原白秋や島崎藤村の詩が、いかに技巧に優れているかを私は知っています。
ただ、技巧より、軽指摘的な完成度より、大切なもの、尊いものが詩にはあり、それを提示してくれるのが、金子みすゞの詩だと改めて感じ入った次第です。