(まどか大学講義3)「まどか」のモデルケース、3つの到達点

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「すべて『まどか』なり」のモデルケース、3つの到達点

 

前回は「まどか」の定義、そのバリエーション表現についてお話しいたしました。

 

「まどか」は「すべて『まどか』なり」を縮めた言葉です。

 

風花まどか大学が公式に定義しているのは、以下の文言です。

 

大いなる愛に抱かれて覚える、深い安息と未来への希望

 

「すべて『まどか』なり」の状態を英語にすると以下のとおり。英語の方がわかりやすいかもしれません。

 

Everything is all right. Peace is here.

 

この英語「Everything is all right」は、映画「1/4の奇跡 ~本当のことだから~ 」のタイトルとなっています。

 

しかし、いかに定義をいろいろご紹介したところで、具体的なイメージは浮かびにくいでしょう。

 

そこで、「まどか」なる状態をかなえた人を、3人ご紹介します。以下のリンク先では、動画で「まどか」の到達点を体感できます。

 

山元加津子さん「えいちゃんの話」

 

早苗ネネさん「和歌HULA」

 

荒川静香さん「トリノ五輪2006 フリー演技」

 

※液晶テレビも素晴らしいです⇒2006年 トリノの奇跡、今こそ観ていただきたい荒川静香さんのエキシビション「You Raise Me Up」

 

それぞれの動画について、風花の解説が必要かもしれません。しかし、それをするとなると、それぞれ30分以上の動画ができあがってしまいます。

 

詳しい解説は、機会を改めていたしますので、今回はご勘弁ください。

 

それよりも何よりも、まずは、データを持たないで、上の3本の動画を楽しんでください。

 

もちろん、この3つの到達点は一例に過ぎません。本当の「まどか」は、あなた自身に創造していただきたいのです。

 

そのためのお手伝いを、風花まどか大学で精一杯、いたしますので、どうか、まどか大学を卒業するまでに、クッキリとあなた自身の「まどか」を描き出してください。

 

山元加津子さん、早苗ネネさん、荒川静香さんのように、到達点を明示できなくても、風花まどか大学を卒業されれば(全課程を習得されれば)、「まどか」の鮮明なイメージは描き出せるようになることでしょう。

(まどか大学講義4)世界で一番美しいものは?

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真の「美しさ」を知ることが、「まどか」の真の理解につながる

 

今回と次回の2回で「美しいもの」と「まどかなるもの」とを比較してみたいと思います。

 

そうすることで「まどか」とは何か、どのような特徴があるのか、その独自性は何かが、より鮮明になると考えているからです。

 

実は、すでに「美しいもの」については書き上げていたのですが、なぜか記事が消えてしまいました。

 

下書き保存したつもりが、そうなっていなかったのかもしれません。

 

気を取り直して、今回は「美しいもの」について粘り強く書いてみることにします。

 

世界で一番美しいものは?:吉川英治の場合

 

小説「宮本武蔵」で有名な作家の吉川英治は、世界で最も美しいものについて、以下のように語っています。

 

桜の木の下でお弁当を広げて花見をしている老夫婦の姿は、この世で一番美しい。

 

いかにも「人生肯定の人」である吉川英治らしい言葉です。

 

吉川英治の小説には悪人が出てこない、とはよく言われること。

 

しかし、悪人が出てこない小説なんて面白くないじゃないか、という疑問がわいてきます。

 

善人と悪人の両方がいるのが世の中だし、私たちの中にも善人と悪人が同居しているでしょう。

 

20代の頃は、吉川英治の小説を読んだ時に、物足りなくて、没頭できませんでした。

 

しかし、今になってみると、世の中いろんな人がいるし、もちろん、善人ばかりではなく、悪人もいることは百も承知で、小説を書いたであろう、吉川英治の徹底した姿勢が、凄いと思えるのですね。

 

人間愛も、ここまで来ると、侮れないだけでなく、深く感心させられるのであります。

 

性善説とか、性悪説とかいう次元を、吉川英治は超越して人間をとらえている。吉川英治のあふれんばかりの人間愛が、吉川英治をして悪人を欠かせなかったと言うべきでしょうか。

 

仲睦まじく、花見を楽しむ老夫婦の姿に、志向の美を感じた吉川英治の人に対する愛のじんわりとした愛情に、今の私は感動さえ覚えるのです。

 

世界で一番美しいものは?:チャップリンの場合

 

喜劇王と呼ばれたパントマイム俳優であり、「街の灯」「モダンタイムス」「独裁者」「ライムライト」などの名作を生み出した偉大な映画監督である、チャールズ・チャップリンは、世界で最も美しいもについて問われ、以下のように答えています。

 

一流の選手同士のテニスの試合は、世界で一番美しいと感じる。

 

この答は、私にとって意外でした。

 

チャップリンは「美しさの中には必ず哀しみがある」という名言を遺しています。

 

人生の哀歓を、感傷的ともいえる、豊かな抒情性でもって、時にはユーモアとペーソスを交えて表現し続けたチャップリン。

 

だから、もっと情感あふれる美学を聞きたかった。しかし、その期待に反してチャップリンは、実にクールに、一流のテニスプレーヤーが一番美しいと断言したのです。

 

このクールさ、客観性は、映画監督には不可欠な視点でしょう。映画における美は、ほとんどすべて計算された美しさなのですね。

 

チャップリンは、一流のテニスプレーヤーの動きに、計算された、合理的な動きの美しさを感じ取っていたのではないでしょうか。

 

そして、それプラス、合理性を超えた、神の動きを読み取っていたと思われます。

 

世界で一番美しいものは?:クラマーの場合

 

「日本のサッカーの父」と呼ばれる、サッカーの名コーチである、デットマール・クラマーは以下の言葉は有名です。生前は「クラマーさん」という名で親しまれました。

 

己(おのれ)の役割を全(まっと)うするために、全力を尽くした人間ほど美しいものはない。

 

この言葉は、メキシコで3位決定戦を終えた日本チームをクラマーさんが見て、発した言葉だったと思います。選手全員が全力を出し尽くし、疲れ果て、倒れ込んでいたそうです。

 

サッカーに密着して解説するなら、「選手1人ひとりが各ポジションという役割を全力で果たした姿は美しい」ということになります。

 

しかし、現在では、しばしば、自分の好きなことに打ち込んでいる人たちを、賞賛する時の言葉として使われているんですね。

 

かなり前のことですが、正月の高校サッカーの放送中に、このクラマーさんの言葉は紹介されたのですが、なんて素晴らしい言葉なんだろうと感じ入りました。

 

クラマーさんのもっと詳しいエピソードはこちらに

 

世界で一番美しいものは?:風花未来の場合

 

「世界で一番美しと感じるものは」は、人それぞれ異なるでしょう。

 

風花未来が、同じを質問をされたら、躊躇なく、以下のように答えます。

 

灰の中から蘇る不死鳥のように、絶望の淵から復活した人間が最も美しい。

 

この美意識を、私は「蘇(よみがえ)りの美学」と呼んでいます。

 

この言葉を、私は二十歳の時に、一冊の大学ノートに記しました。今このノート「芸術論覚書」は、ほぼ完成された美学論になっているから驚きです。

 

どれほど未熟であっても、全身全霊を傾けて突き詰めれば、真実を見えてくるのですね。

 

「灰の中から蘇る命を礼賛」した理由は?

 

その頃の私は(実は今でもどうの傾向はあるのですが)、「人生をギリギリのところで肯定する」思想を独りで極めようとしていたからだと思います。

 

いわゆる「人生肯定」ですね。

 

「人生肯定」を突き詰めますと、自ら死なない、自殺しない、ひたむきに生きようとする、となります。

 

なぜ風花未来は、二十歳の時に「蘇(よみがえ)りの美学」を唱えたのか?

 

その後、風花は4回ほど死にかけるという体験をすることになります。一つ間違えば死んでいたかもしれないのに、なぜか、今日まで生きているのですね。

 

ひょっとすると、二十歳の頃、私は自分の未来を予見していたのかもしれません。

 

「滅びの美学」を、風花は未来のために全否定します。

 

この「蘇りの美学」の真逆なのが「滅びの美学」です。

 

太平洋戦争の末期、日本は本土決戦をするべきだったと、今も主張している人がいます。桶谷秀昭という文芸評論家です。

 

ほとんど戦うための武器が尽きているのに、竹槍で連合国と戦えなどという暴言は、精神論にしても、あまりにも低劣すぎます。

 

本土決戦をなぜ主張したいのか、その気持ちはわかりますが、そんな暴言を吐いて、米国や日本人に怒りをぶつけても意味がない。

 

本土決戦をするくらいの覚悟を持って、巨大な勢力に負けず、アイデンティティーを貫くことは、戦後80年になろうとしている現代においてこそ必要だと言うのならば、ある程度は納得できます。

 

しかし、今の日本にはアイデンティティー(自分の存在する意義を証明する確かな価値観や信念)そのものがないのです。まずはそれを確立しなければいけません。

 

日本人とは何か、私たちは何者なのか、そいう根源的な問題と、まず向き合うべきです。

 

世界で唯一の被爆国である日本は、どの国に対しても対等の立場で、世界平和の実現に努力することこそが、アイデンティティーの確立につながるのではないでしょうか。

 

本土決戦を主張する人は、屈辱を受け入れて長らえるよりは、潔く滅びた方が美しいという考えなのでしょうが、私はその美学には断固反対します。

 

小説などの芸術文化の一ジャンルとしての「滅びの美学」は理解できますし、その価値も認めています。

 

しかし、人の生き方としては「滅びの美学」は、私は否定したいのです。

 

潔く死ぬことは、美しいことでもなんでもありません。

 

人間は、たとえ不細工で、無様でも、生きなければいけない時があるし、その不格好さを美しいと感じるセンスがなければ、人生をギリギリのところで肯定できません。

 

人生肯定とは、きれいごとではありません。人生肯定を貫くためには、命をかけるしかない。泥だらけになって、のた打ち回らねば、希望の未来はつかめない、と私は腹をくくっているのです。

 

美しい人は、必ず泥まみれになっているのです。

(まどか大学講義5)「美しさ」と緊張感の関係

とびっきりの美しさは、高い緊張感を強いる。

 

前回は、「世界で一番美しいもの」についてお伝えしました。

 

「世界で一番美しい」と感じているものと「最も『まどか』を覚える状態」とが一致している、同じだと答える人はいるかもしれません。

 

吉川英治が語った「桜の木でお弁当を広げて花見を楽しむ老夫婦の姿」は、まさに「まどかなり」の世界と言えます。

 

しかし、大抵は「世界で一番美しい」と感じるものと、「最も『まどか』を覚える状態」とは、異なっているでしょう。

 

「まどか」は美しい、でも「世界で一番」というところが肝です。

 

「世界で一番美しいもの」は、ほとんどの場合、日常的ではない、稀有な状態でのみ成立します。

 

要するに、高い緊張感の中で輝くのが「世界で一番美しいもの」なのです。

 

緊張から解き放たれているのが「まどか」の特徴。

 

しかし、「まどか」は、緊張がゆるんでいる時に発動しやすい、という特徴がある。

 

平たく言えば、「まどか」は緊張を嫌います。緊張していない状態を好むのが「まどか」なのですね。

 

肩こり、腰痛、背筋痛に、私は長年悩まされてきました。

 

仕事が原稿書きであったがためです。いわゆる「職業病」です。

 

早稲田大学の近くに住んでいた頃、よく通った整骨院の先生に言われた言葉を今も鮮明に憶えています。

 

「人は緊張するのは簡単だが、リラックスするのは難しいんだよ」

 

そう言われてみると、私の人生を振り返ると、常に緊張してきた、そんな気がします。

 

これだけ、体のそこかしこに痛みを覚えてくると、緊張から自分自身を解き放つことが、いかに難しいかに気づかざるを得ません。

 

実は「まどか」においても、「緊張から自分を解放すること」が重要なのです。

 

以下、人を緊張から解き放ってくれる、心を浄化させてくれる「美しいもの」をご紹介しましょう。

 

夕焼け

 

フランクルの名著「夜と霧」の中に出てくる、感動の場面。アウシュビッツ収容所で激しく理不尽な労働で疲れ果てた捕虜たちの一人が、真っ赤な夕焼けを見て「世界って、なんて美しいんだろう」と、うっとりと囁くのように言ったという話。

 

いつガスかまどに放り込まれるかもわからない絶望的な日々。過労と飢えと死への恐怖に打ちのめされそうな人の心を、和ませ、麗しい色に染め上げた夕焼け(美しきもの)の力は大きいですね。

 

学生の頃、この話を初めて読んだのですが、極限状況化にも関わらず、美しい夕焼けに感動する……人間って、何て美しいんだろうと感じ入ったのを憶えています。

 

「美」に感動する時、人は人らしくなれるのだと思うのですね。

 

だから多くの人たち(出逢う人すべて)に、美を感じる心を大切にしてほしい、と風花は切に願っています。

 

糸トンボ

 

幼い頃の思い出ですが、近所の蓮池で見つけた蒼い糸トンボから、しばし眼を離すことができませんでした。じっと息をとめて、見入っていたのだと思います。あの糸トンボは、どこに行ったのだろう……。

 

水色のカラマツ林

 

五月の高原。清里から野辺山に向かう電車の中から見た、カラマツ林が忘れられません。

 

樹木の芽吹きは、若緑色が普通ですが、その時見た、カラマツ林は水色でした。

 

カラマツ林の中を遠ってゆく時、私は水の中にいるような錯覚にとらわれたほどです。

 

空気が澄んでいると、芽吹きも神々しいまでに美しい。

 

あの時の私の心も、澄み切った水のように透明だったのだと思うのです。

 

東山魁夷の絵の中で描かれた樹木は、独特の「青」をしていますが、幼い頃、高原に暮らしたことがある画伯も、幻想的な樹木の芽吹きを見つめ、独自の色彩感覚を育てたのかもしれません。

 

涼しい気な眼差し……眼のきれいな人

 

何十年も前の話。ふと街ですれ違う女性の「涼しげな眼差し」に、ハッとして足を止めたことがありました。

 

あの「涼し気な眼差し」は、遠い記憶のかなたではありますが、まだ消えずに私の心に刻まれています。

 

思えば「涼し気な眼差し」とした人が、たくさんいた気がします。

 

世の中に、今ほど情報があふれていなくて、情報に汚染されていない、つまり「心」がきれいなままの人が普通にいた時代がありました。

 

「眼は心の窓」と言いますからね。

 

「涼し気な眼差し」に出逢うことはなくなりましたが、「きれいな眼をした人」も極めて少なくなっている気がします。

 

こんな時代……きれいな眼の人になる教育、眼のきれいな人になろう運動が始まってほしいと思うのですが……

 

次回は「風花まどか大学」、即ち「まどか学」が目指す「美しさ」について、お伝えしますね。