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映画「おくりびと」の原作小説「納棺夫日記」を読んだ感想

映画「おくりびと」は以前、かなり話題になりましたよね。この映画の原点となった著書をご存知でしょうか。

 

これがその本「納棺夫日記」です。

 

 

本木雅弘がこの著書を読んで感銘を受け、作者である青木新門の自宅を自ら訪問し、映画化の許可を得たらしいのです。

 

「おくりびと」について、Wikipediaに以下のような記述がありました。

 

本木雅弘が、1996年に青木新門・著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木新門宅を自ら訪れ、映画化の許可を得た。

 

その後、脚本を青木に見せると、舞台・ロケ地が富山ではなく、山形になっていた事や物語の結末の相違、また本人の宗教観などが反映されていないことなどから当初は映画化を拒否される。

本木はその後、何度も青木宅を訪れた[要出典]が、映画化は許されなかった。「やるなら、全く別の作品としてやってほしい」との青木の意向を受け、『おくりびと』というタイトルで、『納棺夫日記』とは全く別の作品として映画化(引用元:Wikipedia)

 

さっそく、「納棺夫日記」を買い求め、読み始めました。

 

驚いたのは、作者の筆力です。これほどまでに力のある文章を読んだのは、久しぶりです。詩人でもある方なので、詩情も豊かなのですが、文体に一本筋が通っており、凛とした味わいがあります。

 

自分でも後ろめたいと思ってやっていた納棺師という仕事を、ずっと続けてゆこうと作者に決心させたエピソードは、読む価値があります。

 

作者を変えた事件はネタバレになるので書きませんが、青木さんはこう書いておられます。

 

己をまるごと認めてくれるものがこの世にあると分かっただけで生きていける。そして、思想が一変する。

 

ある事件のあと、青木さんは、誇りを持って納棺夫に徹する日々を送るようになりました。

 

思えば、人が自分の仕事に、心底からプライドを持つことは簡単なことではないですね。

 

この「納棺夫日記」は、自分にとって仕事とは何か、ということについて、深く考えさせてくれます。

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「きもいり」は「肝煎り」と書くのが正しくて「肝入り」は間違い。

「会社の上司の肝煎りで2人はついに結婚することになった」

 

このように「肝煎りきもいり)」とは、人の間に入っていろいろと世話をしたりして、間をまとめるために骨を折ること、あるいは人を指す言葉。

 

肝入り」と書いてしまう人が多いのですが、これは間違いで、正しくは「肝煎り」と書くのです。

 

このような間違いを犯すことを防ぐためには、一歩踏み込んで、言葉の意味を理解する必要があります。

 

「肝」は精神の宿るところを指す言葉であることを、まず知っておきましょう。

 

そのため、「肝に銘じる」「肝をつぶす」「肝をひやす」「肝がすわる」などの言いまわしがあるのです。

 

「肝」を「煎る」は、「心をこがす」の意。それが転じて「心を悩ます」「心遣いをする」あるいは「世話をする」という意味に。

 

この「肝を煎る」を名詞化したのが「肝煎り」なのです。

 

このことを理解すれば、今後は「肝入り」と間違えてしまう失敗はしないでしょう。

萩原健一が主演した「渋滞」は、じわじわくる腹痛のような共感がたまらない。

渋滞」という古い映画を見ました。

 

萩原健一が主演の映画だと言えば、その古さが想像しやすいかと思います。

 

これは心に沁みる映画ですね。隠れ名作と言っていいほど、完成度も高いです。

 

12月30日~1月3日までの物語。

 

家族4人が、四国の実家に車で帰るという設定です。

 

30日に東京を出発し、その日のうちに田舎に着くはずが、渋滞に巻き込まれ、その後も次々にアクシデントが発生し……。果たして、4人家族は、実家に帰れるのでしょうか?

萩原健一と黒木瞳の存在感が凄い。

 

1991年の作品ですが、こういうことって、今でもあると思います。

 

「渋滞」ではなくとも、派遣切りにせよ、年金問題にせよ、結局は、庶民はやり場のない嘆きを、抱えて生きてゆくしかないのですね。

 

「渋滞」という映画は、庶民の哀歓を繊細に描写。家族、人と人とのつながりを、丁寧に表出しているところが、素晴らしいと思いました。

 

それにしても、映画は役者の力が実に大きく作用する、そのことを改めて痛感した次第です。