美しい詩

高野悦子「二十歳の原点」にある「旅に出よう」の詩について。

高野悦子という人物をご存知でしょうか?

二十歳の原点」の作者といえば、想い出す人が多いかと思います。

「二十歳の原点」は1971年に新潮社から発行されたました。高野悦子の日記をまとめたものです。

学生時代にこの「二十歳の原点」を読みましたが、当時の私は難解な哲学書などと格闘していて、「二十歳の原点」を侮っていたのです。

あれから、長い年月が過ぎ去りました。でも、一方で、ついこの間のことにようにも感じます。

最近、読み直してみたら、予想さえできなかった衝撃を受けたのです。

「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」

高野悦子の「二十歳の原点」。この本の中にある言葉を今もなお覚えています。それは以下の一節です。

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

なんて素晴らしい言葉なんだろう、と感じ入ってしまいました。

1969年6月24日、20歳という若さで高野悦子は自殺してしまったのですが、彼女の遺した言葉が、中年男子である私の心境にもピッタリと当てはまるから驚きです。

高野悦子が青春期に書いた言葉が、若さから遠く離れてしまった今の私にしっくり来るとは、これはどういうことなのでしょうか?

私自身、成長していない、即ち「未熟」すぎるとしたら、情けない気がします。

しかし、現代社会で、成人→中年→熟年と年齢を重ねてゆけば、悟りの境地に達するというか、悩みがなくなる……そういう人の方がむしろ少ないのではないでしょうか。

最近、孤独である自分を見つめなおし、そして自分の未熟さを認めることが必要だと思い始めています。

「独りであること、未熟であること」は、若くもない今の私にとっても「原点」と呼ぶにふさわしい言葉なのです。

高野悦子の「旅に出よう」の詩は、時代を超えて胸に迫る。

「二十歳の原点」の最後に記載されているが、すばらし過ぎます。

その詩にはタイトルがないので、書き出しの言葉をとって「旅に出よう」の詩と呼ぶことにしました。

高野悦子のみずみずしい感性はまさに二十歳のものですが、詩そのものは年齢や性別など関係なく、人の胸に沁みいるのです。

以下、全文を引用してみましょう。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗闇の中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽(かす)かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

動画中で、私は「はたちのげんてん」と言っておりまが、実際の書名は「にじゅっさいのげんてん」だそうです。たいへん失礼いたしました。「にじゅっさい」と読むのは、私自身は無理というか、かなりの違和感を覚えますので、私個人としては勝手ながら「はたちのげんてん」と呼び続けるつもりです。

ずいぶんたくさんの詩を読んできましたが、大げさではなく、この高野悦子の詩は「名作だ」と絶賛したくなるほどの魅力がありますね。

どうしてこの詩に、高い価値を感じるのか?

高野悦子が(死と引き換えにしてつかんだ)生の純粋な実感が、奇跡的な結晶化を生んだからでしょう。

現代詩は、高野悦子の「旅に出よう」にある、「生きることがそのまま詩になる」という「詩創作の原点」を失ったから衰弱してしまった、という思いを新たにしました。

私は今さら現代詩の批判などする気は毛頭ありません。

ただ今は、原始林の中に広がる清澄な空気を胸いっぱいに吸い込むように、高野悦子の詩を素直に呼吸したいと願うばかりです。

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