私自身、今もなお憧れ続けているものといえば、それは「青い空」です。風花式で言いますと「瑠璃色の空」となります。

 

少年の頃に見た、あの真っ青な空の輝きを、今も憶えているから、未来への希望が抱けるのかもしれません。

 

ところで、今回は「詩の永遠のテーマ 青い空」について、書いてみたいと思います。

さっそくですが、谷川俊太郎の「かなしみ」という詩を引用してみましょう。

 

 

かなしみ

 

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
なにかとんでもない落し物を
僕はしてきてしまったらしい

 

 

「青い空の波の音」と書いたところが、さすがに詩人ですね。ふつうは、青空を見ても波の音を感じることは、まずありませんから。

 

そして「青い空」を「落し物」につなげたことが、この詩の寿命を長くしているのだと思います。

 

歌人も、「空」を、ひんぱんに詠みます。

 

若山牧水のこの歌を知らない人はいないでしょう。

 

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

 

石川啄木にも、こんな歌がありました。

 

 

不来方(こずかた)のお城のあとの草に臥(ね)て
空に吸はれし
十五のこころ

 

 

彫刻家であるロダンは、こんな意味の言葉を遺しています。「誰にでも、天空と樹木とがあるのに」。

 

神様は人に対し、いろんな不公平をなさる。でも、真っ青な空と緑潤う木々は、平等に眺めることができます。

 

ロダンは、愚かな戦争を繰り返す人間たちの愚かさを嘆いて、「誰にでも、天空と樹木とがあるのに」という言葉を発したのかもしれません。青春期に読んだのですが、今でも時々思い出す言葉の一つです。

 

ロダンほど詩的な彫刻家も珍しいですが、同じ彫刻家である高村光太郎は、詩人でもありましたね。そういえば、「ロダンの言葉」を翻訳したのは高村光太郎でした。

 

高村光太郎も、青い空を詩にしています。「あどけない話」も有名ですが、以下、引用してみますね。

 

 

あどけない話

 

智恵子は東京に空が無いという
ほんとの空が見たいという
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言う
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという
あどけない空の話である。

 

「青い空」は、実にさまざまな形で詩化されていますね。星や木や水もそうですが、空が与えてくれる恩恵の大きさに、今さらながらに驚かずにはおれません。「青い空」は、心の糧でもある、そう静かに語りたい気分です。

 

秋は空が美しい季節でもあります。詩を書かないまでも、せめて空を眺めるゆとりくらいは持ちたいものです。