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秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって……中原中也「一つのメルヘン」が語るもの。

秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって」で始まる、中原中也の「一つのメルヘン」という詩を知らない人は、あまりいないのではないでしょうか。

それくらい有名な中原中也の代表作です。私が高校生の頃は、現国の教科書に載っていました。

このブログでは、さまざまな詩を紹介してきましたが、中原中也の詩は少ないのです。

その理由は、二十歳そこそこの頃に、あまりにも中原中也にのめり込み過ぎたからでしょう。

大学在学中に「中原中也論」を書いくらい、私は中原中也の詩に魅せられていたのです。

今でも、大学生の時と変わっていない思いがあります。それは「一つのメルヘン」は、中原中也の最高傑作である、ということです。

では、以下で、その思いの根拠である「不思議な幸福感」について、語ってみることにします。

では、中原中也の詩「一つのメルヘン」を引用してみましょう。

一つのメルヘン

秋の夜(よ)は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

久しぶりに読み返したのですが、意外に短いことに驚きました。

連の構成が4433なので、ソネット形式と言えるのでしょうか。まあ、そういう形式とかは、この詩の価値の決定要因にはなりません。

大事なのは、中原中也の「到り尽くした境地」であります。

「到り尽くした境地」とは、限界点、極限状況を指すのであって、思想的な悟りとか、詩人としての開眼を意味しません。

自分の宿命に愚直であった中原中也は、追い詰められていたのです。

中原中也にとって、詩を書くことが生きることでした。詩人には多かれ少なかれ「詩を書くことと生きることがイコールになっている」ものですが、中原中也ほど、悲劇的にその生活様式にハマっていた詩人は他にはいないでしょう。

高村光郎には彫刻があったし、智恵子というかけがえのない人がいた。八木重吉には愛する妻の登美子がいたし、キリスト教という信仰があった。

しかし、中原中也には詩以外には何も持っていなかったのです。これほど孤独な詩人を私は知りません。

中原中也は、詩人の人生を歩いてきて、ついにその終着点にたどり着いた。

それが「一つのメルヘン」に他なりません。

ここではもう、哀しい歌も、終わりのない告白も、必要なくなりました。あるのは、不思議なほどの静寂。そして、見えるのは、世にも美しい幻影だけ。

暗い毒の分泌、孤独地獄の喘ぎ、やり場のない悔恨などは、嘘のように消え、一羽の蝶が現れた。

この現出された世界から私たちが感じるのは、不幸や悲哀を通り越した「不思議な幸福感」なのです。

一羽の蝶は、中原中也の化身でしょう。

中原の詩の多くは、夜の歌であり、闇の中の光であるのですが、この詩「一つのメルヘン」ばかりは、明るく、澄んだ情景が広がっています。

しかしながら、この明澄な世界には、現実的な生活感はなく、あくまで「幻」なのです。

濁り、うごめき、とぐろを巻いていた激流が消えた。死の直前にふっと現れる幻覚のように見えたのが「一つのメルヘン」でありましょう。

中原の人生は実に暗いものであった。彼の背負った宿命は、呪われていた。そう思えなくもありません。

しかし、この「一つのメルヘン」によって、中原の生涯は光に満ちたものに一変した、と私は信じています。

「一つのメルヘン」という幻影が、これまで中原中也の書いた死の中で最も美しいものとなったのは、詩人の中原中也にとって幸福であった。

「一つのメルヘン」という結晶を得たことは、中原中也という詩人の人生は、祝福されたものでった、そのことの証明であると感じられてなりません。

美しいものには、人を救う力があるから。

現れた一羽の蝶、やがて流れ出す清らかな流れ……ここまでくれば、中原中也の魂は救われ、幸福を感じているに違いありません。

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