「山のあなたの空遠く」で始まる、カール・ブッセの有名な詩を今日は取り上げます。
【動画】(朗読)カール・ブッセの詩「山のあなた」(上田敏訳)
まずは、「山のあなた」を取り上げる至った経緯についてお伝えしましょう。
何かが、遠くで揺らめいています。
最近、一つの想いが日増しに強くなっていて、切ないような哀しいような気分になり、こうしてキーボードを打っている次第です。文章にすれば、その想いは、少しは和らぐのか、それは全く予想がつきません。
かなたに揺れているもの、あるいは揺らいでいるといった方がいいのか、そうした不確かなものが、確かにあると感じているのですが、どうにも、それを捕えようがなく、ただ、その揺らぎをじっと感じているしかないのです。
秋だから、少しセンチメンタルになっているだろうと片付けたいのですが、どうやら、それほど簡単には済みそうにありません。
そんな折り、ほとんど偶然ですが、ドイツのカール・ブッセという詩人の詩を再読する機会があり、「うっ!」と思わず、声をもらしそうになりました。
「山のあなた」は非常に短い詩です。さっそく、その全文を引いてみましょう。手元にあるのは、中野好夫の「文学の常識」という角川文庫です。その中からの引用となります。
「山のあなたに」の詩が収められているのは、上田敏の有名な翻訳詩集「海潮音」。紙の本では「海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫) 」で読むことができます。
山のあなた
カール・ブッセ 上田敏 訳
山のあなたの空遠く
幸い住むとひとのいう
ああ、われひとと尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえり来(き)ぬ
山のあなたになおとおく
幸い住むとひとのいう
解釈の必要もないほど、たいへんわかりやすい詩ですよね。
ただ、古い言葉づかいがありますので、一応、語句の意味を説明しておきます。
「尋(と)めゆく」は「探しに行く」という意味。「さしぐむ」は「目に涙がわいてくる。涙ぐむ」の意。
現実の生活ではどうしても満たされないものを感じているのだけれど、どうやら、それは「山のあなた」にあるらしい。だから、実際に尋ねてみたけれど、「幸い」という名の何かは、そこにはなく、涙にくれるしかなかった。
しかし、あの山をもう一つ越えれば、その向こう側に「幸い」はあるというのだが……というくらいの意味でしょう。
この詩を、青春の感傷にすぎないと切り捨てることは、今の私には到底できません。
というか、人生も、また人のあらゆる表現も、この一遍の詩に集約されるのではないか、とさえ思ってしまうくらいなのです。
若山牧水の以下の短歌も同様のテーマを歌っていますね。
幾山川越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく
※若山牧水については、こちらの記事をご参照ください⇒若山牧水の代表的な名作短歌
今の私は、かなたで揺れるものの存在を感じています。ただ、それが何なのかも、判然としません。時には、それは蜃気楼のようなものかもしれないと思ったりもします。
確かに、蜃気楼のように揺らめいていることは確かです。心の渇きがつのってきて、かなたで揺れるものを幻視させているのでしょうか。
その揺れるものを、「夢」とか「希望」とか「憧れ」といった言葉に当てはめれば、またはカール・ブッセのように「幸い」と言ってしまえば、気持ちが休まるとも思えないのです。
かなたで揺れる何かは、たぶん手で握れるものではないでしょうし、肉眼で形や色を確認できるものでも、おそらくはないでしょう。
「山のあなたに」の詩は、上田敏の有名な翻訳詩集「海潮音」に収録されています。今の私に、とりあえずできることといったら、上田敏の全訳詩集(ワイド版 岩波文庫)を注文することくらいでした。
このブログのテーマに「日本語の美しさ」の再発見がありますが、上田敏の訳詩にも、貴重な発見があるのではないかと期待はしています。
繰り返しますが、「山のあなた」の詩は、青春の詩ではないですね。年を重ねるごとに重みを増す、あるいは人を惑わす詩だと、ようやく気が付きました。
かなたで揺らめくもの、それが消えてしまったら、いったい私はどうなるのか……その方が怖いような気もするのです。
始めまして
お邪魔いたしします
同じ上田敏の「海潮音」に収録されている『海のあなたの』 もイイですね
「海のあなたの」 テオドル・オオバネル作
海のあなたの遙けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、
海のあなたの遙けき国へ。
参考になりました。ありがとうございました。
山のあなたの、そら遠く、幸いひとの…すむという、、、この文章にはこころが、魂が揺さぶられる、ものと、いうか、なんとも深い、いいしれない…情況が、哀しくも、せつなく、おもいの、感傷なのです、、、
初めまして。
毎日が幸せでないとは言わないけれど、どこか遠くにいけばこの胸の内の小さな(?)空洞を満たしてくれる何かに出会えるかもしれない…。、、、でもそんな場所はないのかもしれないなあ、、。そういう気持ちになることがありますね。
私は朔太郎の
「旅上」が好きです。
ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめて新しき背広を着て
はるかなる旅に出ててみむ
汽車が山道を行くとき
みづいろの窓に寄りかかりて
われ一人楽しきことを思はむ
五月の朝のしののめ
うら若草の萌えいずる
心まかせに
、、、これも、フランスという具体的な場所ではなく、どこか遠い所、心が求めるどこにもないかもしれないどこか、、への憧れなのだろうな〜と思って、決まって初夏に口ずさむ歌です。
山のあなたの空遠く
山とは日本語で 山の神 つまり妻を
指すとすればこの詩の意味は尚深くなります
良く画面夫婦が空気の様な存在になって会話が
無くたまに外で食事するよな時はお互い話す事も
無く黙ってレストランで黙々と正に空気の様な
光景を目にします しかし夫婦なぞ同じ日に亡くなるカップルは稀で片方が他界してからもっと会話しておけば良かった、と後悔します
ツーといえばカー などは有り得ない世界です☆
高校時代に大好きな詩です。最近身にしみてやはり
いい詩だと思います。70才過ぎても胸にじーんときますね。
確か金田一春彦氏がヒトを漢字と平仮名に書き分けてあるのを指摘していましたが、例えば三善英史さんの雨にも同じ使い分けがあります。よくある例ですか