連続テレビドラマ「若者たち」の第17話「友だち」で朗読された詩をご紹介する。
この作者はハインリヒ・ハイネ。尾上柴舟(おのえ さいしゅう )によって翻訳された『ハイネノ詩』に収録されている。
友だち
言うまでもなく素晴らしい
黒い瞳の俺の友だち
太陽に向かって旗を押し立て
足音を立てて歩いてゆく
幾十万の俺の友だち
君たちの旗を遠い遊星に立てろ
新しい世界の真ん中に立てろ
健康を誇る若者よ
幸福を運ぶ若者よ
形がないのに君たちには見える
音がないのに君たちには聞こえる
あの希望という名の不確かな星を
謙虚に勇敢に追い求めてゆけ
移ろいやすい疑惑で
その旅を汚(けが)すな
悔恨の吐息で
その旅を終わるな
険しい闘いの時が
蟷螂(とうろう)の斧(おの)を押し砕き
毎日見る間に押し流して行っても
時の間(ま)の敗北が
君たちのある日を暗闇にしても
音を立てて今地球が回っていることを忘れるな
僕たちは僕たちの錯乱を信じよう
ざまもない失敗を堂々と誇ろう
未来は真っ白な手帳のようだ
新しく始まる音楽のようだ
風や雲やかげろうのように軽く
海や大きな嵐や大きな河のように力強く
僕たちは僕たちの車を押してゆく
もっと緑濃い森の中に
もっと伸びやかな人間の世界に
言うまでもなく素晴らしい
真っ黒い瞳の友だちよ
懐かしい友だちよ
見知らない兄弟よ
※「蟷螂(とうろう)の斧」とは《カマキリが前あしを上げて、大きな車の進行を止めようとする意から》弱小のものが、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうことのたとえである。
※「時の間」は「ときのま」と読む。意味は「ほんの少しのあいだ」「つかのま」「ほんのちょっとの間」や「暫時(ざんじ)」で、古語として使われる。
ドラマの最後に山本圭がこの詩の朗読するのだが、鳥肌が立つほど素晴らしい。
⇒詩「友だち」の朗読はドラマ「若者たち17話」で視聴可能です
ハイネというと、以下の「きみは花のようだ(原作は無題)」に代表される、美しい抒情詩を想起する。
きみは花のようだ、
本当にかわいくて、美しく、清らかで。
きみを見ると、悲しみが
私の心にしみこんでくる。
ぼくは両手を、
きみの頭に乗せて、
祈りたい、神さまがきみを守ってくださるように、
清らかで、美しく、かわいく。
しかし、実は政治評論も書いている。若き日のマルクスとも交友関係があり、プロレタリア革命など共産主義思想に大きな影響を与えたといわれている。
1960年代で、社会問題を考え、日本の将来を考えぬいた時、この「友だち」という詩以上の希望の歌は、日本人には書けなかったのではないか、と思ってしまう。
ハイネの詩は、イデオロギーを超え、普遍的な人間讃歌にまで到達している。
社会問題に眼を向け、ハイネの「友だち」に匹敵する詩を書いた日本人がいたら教えてもらいたい。
この「友だち」は、テレビドラマおよび映画の「若者たち」の究極の訴えであると、強く感じた。
令和の時代を生きる私たちにとって重要なのは、この「若者たち」と現代をつなげることだ。
ハイネは、1797年12月13日に生まれ、1856年2月17日に没してる。18世紀から19世紀に生きた詩人である。
そして、私たちは今、2025年に暮らしている。
時代が違うよ、で片づけるのではなく、想像力の翼をマックスに広げて、っハイネという詩人の魂に揺らめいていた炎、1960年代の一部の青年の心に肉体に息づいていた熱い息吹を、現代において再呼吸することなしに、現代における真の希望は紡ぎだせないとさえ思うのだ。
1970年代、日本は60年代とはまるで違う風景に染め変えられてしまう。政治の季節は、呆気なく終了してしまった。
その後、現代まで、日本は進化したのか?
インターネットなど、便利化のテクノロジーは営利目的に普及されたが、逆に人間性の退化はすさまじく進んでしまったと私は痛感する。
大自然への回帰……。
私が若くて健康ならば、田舎暮らしを考えるのだが、今の私は引っ越しすらできない状態だ。
私の余命はあとわずか、私なりに「希望」を紡ぎ出したという「希望」は抱いている。
ところで、人生を肯定し、人々を叱咤激励する、人生の応援歌を書くのは、日本人の詩人は苦手なのかもしれない。哀しい抒情詩には優れた詩が多いのだが……。
日本では珍しい、励ましの詩をご紹介しよう。
日本人では、三好達治が、人々と鼓舞し、励ます詩を何篇か書いている。三好達治の本流の詩ではないけれども、ぜひ読んでいただきたい佳作である。
いかがだろうか。今回取り上げた、ハイネの「友だち」、サミュエル・ウルマンの詩「青春」、ラングストン・ヒューズの詩「助言」、ツェーザル・フライシュレイの詩「心に太陽を持て」などと比較してみると、興味深いだろう。


