夏まっさかりですね。この季節になると、美しいひとつの日本語が感じられるようになります。

 

それは「蝉時雨せみしぐれ)」。

 

大辞林は以下のように「蝉時雨」を説明しています。

 

 

たくさんの蝉が鳴いているさまを時雨の降る音にたとえていう語。[季]夏。

 

 

「時雨」は同じく大辞林によれば「初冬の頃、一時、風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨」となっています。

 

この数日間、晴れた日がつづいているせいか、朝、この「蝉時雨」で目が覚めます。

 

「ああ、今日も暑くなるんだなぁ~」と思って、少し憂鬱になる時もあります。ただ、ときどき「蝉時雨」という言葉は、美しい日本語のベスト10に入れても良いのではないかと感じることがありまして、今日はその「感じ」について、書き記してみたいのです。

 

「蝉時雨」は言うまでもなく、音を感じられる言葉であります。実はこの「音」こそ、貴重なのです。どうしてかと申しますと、現代社会において、人間が最も失った貴重なことのひとつが、この「音」にほかなりません。

 

私が住んでいるの地域は、都会といえるほど繁華なところではありません。どちからというと、田舎というべきでしょう。この街に住んでいて、日々の暮らしの中で、聞こえる音はといえば、正直、ロクなものはありません。

 

スマホの着信音、換気扇、エアコンのファン、自動車のエンジン音、トイレの音、パソコンの電子音、ひげそり、ジューサー、冷蔵庫など家電の音……。テレビやラジオから心地よい音楽が流れてくることはほとんどないので、楽曲を選んでCDで聴くくらいしか、自分の好きな「音」を聴けません。

 

ところが、昔はどうだったか? 戦時中は空襲があり、怖い音があったでしょう。

 

しかし、虫の鳴き声、母親の子守唄、豆腐屋のチャルメラの音、さお竹屋の呼び声、紙芝居のおじさんの打つ拍子木の音、子供たちの素朴な遊び声、おばあさんの人なつこい方言、森をぬける風の音、木の葉のざわめき、通り雨の音……などなど、本当に私たちの暮らしは「音の宝庫」の中で息づいていたのです。

 

例えば「小川のせせらぎ」と「水道水が流れる音」を比較すべれ、その「音」の質の良し悪しは明白でしょう。

 

そうした「失われてしまった音の風景」を取り戻さないかぎり、都会生活のストレスから、逃れるすべはないのではないかと思う時があります。

 

そこで、今回ご紹介している「蝉時雨(せみしぐれ)」という言葉。かなり激しい音にもかかわらず、うっとうしいとは感じません。それは、この日本語にある風情が、涼しげな感覚を呼び覚ましてくれているからではないでしょうか。

 

蝉時雨は激しい音ですが、自然な音であり、決して電子音ではない、ここが大きいと思います。

 

例えば「蛙の大合唱」という表現がありますが、それになぞらえて「蝉の大合唱」としたら、微妙な情緒は味わえません。

 

「蝉時雨」というと、音が降ってくる、その視覚的な光景さえ想い浮かべられます。また、夏の苛烈なまでの暑さを、皮膚感覚としてとらえられ、音の雨に打たれている感じさえしてくるのです。

 

蝉の鳴き声を「蝉時雨」と表現することで、音だけでなく、映像が浮かび、体全体で感じとれる。しかも、そこには風情があり、微妙なニュアンスがあり、趣きがあるのです。

 

「蝉時雨」に耳を傾けてていると、じんわりと涙がにじんでくるのを覚える時があります。短い命を燃やしている蝉を想ってなのか、すでに「夏の終わり」を予感しているからなのか、それは判然としません。

 

ただ「蝉時雨」という日本語は美しいと感じます。美しいものは、それだけで泣けるほど哀しいものかもしれませんね。

 

厳しく、長い夏ですが、せめて「蝉時雨」を味わうことで、気持ちを和らげたいと思っています。