私が「言葉を暮らしのまん真ん中にすえること」を決意したのは、他の表現方法に対し、失望したというか、諦めてしまったからです。
例えば、映像文化。次々に動画に関わる技術は開発されています。
しかし、そこに本当の感動はあるのか?
そこに、愛すべき人間はいるのか?
かつて、日本映画の全盛期がありました。1950年代がピークです。
日本の映画界が栄華を極めていた頃の話。
山田洋次監督が、ある講演会で述べているのですが、映画に出てくる日本人って何てかっこいいのだろう、と欧米人が称賛する日本の俳優が2人いるというのです。
私のその2人の名前を知った時、ハッとしました。
その2人とは、三船敏郎と笠智衆です。
真逆のキャラなのに、なぜ、この2人をヨーロッパやアメリカの人たちが賛嘆するのか?
三船敏郎でしたら黒澤明の映画に多数出演している。笠智衆は小津安二郎の映画に多数出演している。
世界的に有名な監督作品に出演しているので、アメリカ人もよくこの2人は知っている。
でも、それだけの理由は、賞賛するはずがありません。
三船敏郎だったら、悪者を勇敢にやっつけ、弱気者を助ける。怖ろしく強いけれども、心は優しい。
笠智衆は、あくまで物静かで、瞳は穏やかに澄み、隣人を愛している。決して激高したりはしないけれども、気高い凛とした精神性を胸に秘めている。
動と静と申しましょうか、まったく違うタイプではありますが、そこに共通するのは、崇高な精神性です。心が清らかだから、生き方が潔いから、欧米人が見ても、かっこいいわけです。
もちろん、映画の世界ですから、映画で造形され描出されたのは、偶像でありましょう。
しかし、偶像ではあっても、日本人だけでなく、欧米人からも敬愛された、輪郭鮮やかな人間像が日本にあった、そういう時代がかつてあったということを忘れてはならないと思うのです。
では、黒澤明、小津安二郎、溝口健二らが作った映像美は、今の日本に受け継がれているか?
もちろん、愛好家はいますが、ほとんどはその質の高い映像美のすばらしさを知りません。
こういう素晴らしい映像作品は、同じ日本人として、共有財産として誇りを持ち、繰り返し鑑賞し、語り合い、永久に語りついてゆくべきではないでしょうか。
しかし、現実は、スマホの普及によって、映像も、お手軽に楽しむだけのものに堕落してしまった感があります。
面白いと感じる、その感覚そもののが劣化してるのではないでしょうか。
もう、新しく出てくる映像には、私は期待しておりません。なぜなら、美しい映像を作り出すには、作る人間の心が澄んでいなければならないからです。
心を澄ます環境が、今の日本にはありません。いや、少しずつでも、そうした空間を広げてゆくのが、もしかしたら私の仕事なのでしょうか。
映像をこよなく愛してきた私ではありますが、もう期待できないので、言葉の世界に集中しようと決意した次第です。
言葉ほど軽視されているものはなく、その尊さを伝えてゆかねばなりませんね。
私自身の生活、活動も、言葉を軸に構築、展開してゆこうと思っています。
白黒の精神性の高い映像の世界には、名作映画を鑑賞することで、触れてゆくつもりです。
できれば、その名作映画という映像を生み出した、人間の気高い精神性を、言葉で表現できればと思っています。
言葉を変えれば暮らしが変わる、心が変わる、人が変わるのです。
愛好するだけでなく、生活を、未来を変えるために、言葉を実際に使ってまいります。