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- 詩心回帰・まどか - 風花シン党=風花まどか物語 - 風花まどか大学・風花塾
「まどか」とは「愛が満ちみちて心が円く和むこと」だと風花未来は主張しているます。
で、今回はここで「まどか」を「愛」という視点から深く掘り下げてみることに。
「まどか(円和)」は、自分自身を愛する(利己愛)と同時に、他者を愛すること(利他愛)でもあり、自分だけを、あるいは他者だけを愛することは「まどか」を生み出しません。
その意味から、「まどか(円和)」は利己愛や利他愛を超えた大きな愛によって育みだされると言えます。
「まどか(円和)」を、利己愛や利他愛と区別するために「まどか愛」と呼んでも差し支えありません。
●「まどか」は、愛に満ちた光の球体である。
利己愛や利他愛を超越した愛を理解するためには、「まどか」を愛に満ちた巨大な光の球体だと考えるとわかりやすいでしょう。
巨大な光の球体には、自分自身が必ず入っていなかればならず、球体の外に自己が存するのであれば「まどか」にはなりません。
つまり「まどか」は自己犠牲ではないのです。
自分も他者もいっしょに幸せになる(自分も他者も愛という名の光の球体の中で呼吸している)様を、イメージしてください。
大いなるもののために力を注ぐと言うと、自分のことは軽視すべきだと考えがちですが、それは間違い。
自分を愛することは大事。自分を愛せない人には他者も愛せません。「まどか」も生み出せないのです。
そしてもう一つ忘れてならない大事なことがあります。それは「愛に満ちた光の玉」は自分自身の中にもあるということ。
私たちは「愛に満ちた光の玉」を抱いているからこそ、自分の外側に広がる世界と愛の共振ができ、「まどか」を創造できるのです。
ですから「まどか」がかなえられる時、愛に満ちた光の球体は、自分の外側にある巨大なものと、自分の中にある小さな球体の2つがあり、2つの球体は共振(共鳴・呼応・交信)している状態だと言えます。
ここで一点、確認してほしいのです。
「哀しみ」は消えて「歓び」があふれている、それが「まどか」であること。
「まどか(円和)」は「歓びの世界」であり、その「歓びの世界」は「愛あふれる光の球体」なのです。
大事なのは、その球体は自分を含む巨大な世界と、自分の中の両方に存在すること。
自分の外側に大いなるもの(光の球)を見出し、同時に自分の内側にも大いなるもの(光の球)を見出しつつ、歓びの世界に自分自身が(他の生きとし生けるものとともに)息づくことこそが、本当の豊かさであり、希望の未来の創造へとつながるのです。
愛は惜しみなく包み込む(すべてを引き受け、赦す愛)
愛惜しみなく与う⇒トルストイ
愛は惜しみなく奪う⇒有島武郎
愛は与え続けるだけのものでもなく、奪うだけのものでもありません。
この意味から、風花未来が唱える「まどか」では、「利他愛」「自己犠牲」「自己愛」「利己愛」という言葉は使いません。
風花未来の「まどか」では「愛」について、以下のように捉え、お伝えしています。
「まどか学」における『愛』⇒「まどか愛」へ
風花未来は「愛」以下のプロセスで、深めてまいりました。
愛は惜しみなくある
愛は惜しみなく湧き出る
愛は惜しみなく息づく
〇愛とは、赦すこと
憎しみや恨みは、魂を崩壊させます。魂の救済は「赦し」以外の道はありません。
〇愛とは、受け入れること
悲惨な運命さえも、受け入れ、愛で包み込めば、安寧を得られ、希望も湧いてくるのです。
そして、次の「愛」に行きついたのです。
愛は惜しみなく包み込む(善も悪もすべて引き受ける大きな愛)
人は愛がないと息苦しくて生きられません。空気が薄いと苦しいと同じです。
そして、以下の円環思想である「まどか(愛あふれる光の球体)」に到達。
人類は愛があふれる光の球体の中で生きるべき。愛の球体は私たちの中にもあるのです。
つまり、私たちは「愛を内に抱きつつ、愛に抱かれて生きている」わけです。
「まどか」とは、愛に満ちた巨大な球体を指し、また、その愛に満ちた球体の中で生きることを意味する、覚えてください。
私たちが幸福になるには「愛を内に抱き、大きな愛に包まれて生きる」、この道が最良だと風花は信じていますが、それを実現するには、この社会に、この世に、この宇宙に、愛を増やしていくことが必要なのです。
つまり、私たち一人ひとりが、内に愛を抱き、外に愛を発し、この世に愛を増やしつづければ、世界にあふれた愛に包まれて生きられるので、幸せになれるのです。