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- 超絶ワンテーマ企画 - 風花シン党=風花まどか物語 - 風花まどか大学・風花塾 - 金子みすゞ
「希望の方程式」の動画配信は以下のリンクからご視聴くださ
⇒第2回目の超絶ワンテーマ企画の動画配信はこちら
超絶ワンテーマ企画とは
「超絶ワンテーマ企画」。
フルネームは「超絶ワンテーマ企画『このテーマで最終回@時間無制限一本勝負』」という。
要するに、一本の動画で1テーマを徹底的に語り切る企画。
予習と復習、そして「ループ学習」のススメ
以下のリンク先をあらかじめ、あるいは動画視聴後に読んでいただくと、動画の内容の理解が速やか、かつ深くなるので、ご一読願いたい。
※「超絶ワンテーマ企画」は「邦画ベスト100」「詩心回帰」「まどか(円和)」「まどか愛」「風花まどか大学」「雨上がりのムーブ」「風花シン党物語=風花まどか物語」「日本の名作詩ベスト100」「風花未来の詩創作」と並ぶ、風花未来の心の復興運動の一環としてお伝えしている。
ループ学習が、成果につながります。
今回お伝えすることは、風花未来がこれまでの人生で、体験したこと、感じたこと、考えたことの集大成のようなものです。
「風花まどか大学」の講義の3年分くらいの内容が凝縮されています。
したがって、サラッと一読しただけでは、ご理解いただけないとご承知おきください。
そこでオススメするのが「ループ学習」です。
今回の記事を、最初から最後まで通読することはもちろんですが、2回目からは、上から下へ、下から上へ、行ったり来たりしながら、何回も繰り返し、お読みください。
この繰り返し(ループ)によって、知識の受肉化、つまり、「希望の方程式」を、実人生で活用いただける生きた知識として習得でき、実践的なマニュアルとして行動できるようになるのです。
では、第2回目をスタート!
「希望の方程式」を知れば、もう惑わされることはない!
「希望の方程式」って、何?と思われたでしょう。
今回は、歴史上の人物3人を取り上げ、その3人に共通することから、現代に生きる私たちが、自信をもって、明るく生きられるようになるための「希望の方程式」を創造してしまおうという、大胆な企画です。
その3人とは、金子みすゞ、宮沢賢治、アルベール・カミュです。
なぜ「方程式」という言葉を使ったのか?
現代では、情報が過剰に膨れ上がっており、しかも、それらのほとんどが収益目的、お金儲けのために配信されています。
日本は資本主義の国。常に経済活動がともない、収益が上げられなければ、活動そのものが継続できなくなるかもしれません。
収益目的の配信では、真実はほとんど発信されず、配信者にとって都合の良い情報だけを、私たちは受け取らざるを得ないわけです。
動画投稿サイトで配信される情報は、話をわかりやすくするために、極端に言えば「ほとんどすべて広告」なのです。
しかし、配信者は広告だと思われないように、たくみな話法で語ってくるので、多くの人は「コロッと騙されてしまう」のです。
そのため、多くの善意ある人々が、世論誘導やイメージ操作などに振り回されたり、時には洗脳やマインドコントロールまでもされてしまうことが珍しくありません。
現状は厳しい。スマホで入手している人たちで、心底から社会に役立ちたいと、誠実に行動しようとしている人ほど、苦しんでいる傾向が強い。
ネットで迷子になり、より良く生きようとしているのに、悩み、苦しみ、生活することの息苦しさに押しつぶされようとしている。
また、自身が発信者に操られていることに気づかないで、間違った道を進んでいる人もたくさんいる。
そういう人たちと、風花未来はネットだけでなく、リアルな現場でも、粘りづよく対話をしてきました。
ですから、今回の「希望の方程式」では、風花未来という個人にしか実践できないノウハウではなく、どなたでも、4つの核心的な真実を知れば、そしてそれをつなげれば、希望の未来をイメージできる、つまり個人差は関係なく、数学の方程式のように「この単純な流れを知れば大丈夫」「このポイントを押さえれば無駄な迷いは消える」という黄金のパターンがあることを、お伝えしたいのです。
希望の方程式とは
哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する
略して「哀慈抗和(あいじこうわ)」と呼びます。
以上が「希望の方程式」です。
「え? 何のこっちゃ?」ですよね。
あたたが今感じられた「何のこっちゃ?」を、「なるほど」「うん、納得」に変えるために、風花未来はこれから精一杯お伝えしますので、どうか、お付き合いください。
この「哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する」という方程式を、一つの文(およそ1分間で)で説明なら、以下のようになります。
「希望の方程式」を1分間で説明すると
哀しみを覚え、慈しみ、本当の愛を知れば、より深い哀しみを知ることになり、愛と哀しみを前向きに生かすためには、自分自身に抗い(反抗)し、自分に打ち勝ち、時には社会に反抗し、自らの愛(自己愛)を自分だけでなく他者をも慈しむ大きな愛(まどか愛)を分かち合う、和を願う精神を持って自らを成長させてゆけば、希望の未来への道は開けてくる。
「哀しむ⇒慈しむ⇒抗う⇒和する」というように、(時系列の)段階を踏んで進むのではありません。
矢印は3つありますが、「哀しむ⇔慈しむ⇔抗う」は双方向の矢印でつながれています。
つまり、「哀しむ」と「慈しむ」と「抗う」は(過去と現在を)行ったり来たりしながら、自らを深め、広げ、高めて成長しながら「和する」をひたすら目指す道程が「希望の方程式」です。
「哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する」
「慈」は「愛」の同義語と思っていただいて差し支えありません。「愛」という言葉はあまりにも日常的に使われすぎているので、今回は「慈しむ」の「慈」を採用しました。
「希望の方程式」は「哀慈抗和(あいじこうわ)」とも呼びます。この方が憶えやすいかもしれませんね。
では、以下では「哀」「慈」「抗」「和」という4つのキーワードについて、ご説明します。
哀(かなしむ)
「哀」しみは人生の中で、ネガティブ要因だとも言えます。深い哀しみに打ちひしがれていれば、寝込んでしまったり、精神を病んでしまったり、最悪の場合には自死してしまう場合もあります。
しかし、「哀」しみを知らなければ人は成長できません。
高村光太郎が敬愛した、あの偉大な彫刻家であるロダンは「哀しみを捨ててはいけない。哀しみを忘れると人は無訓練になり、成長できないで堕落してしまう」という意味のことを言っています。
また、あの映画「街の灯」「独裁者」「ライムライト」などの映画監督であり、役者であるチャップリンは「美しさの中には必ず哀しみがある」と発言しているのですね。
そう、「哀」しみは「美」へと通じる、避けては通れない道だとも言えます。
「哀」しみを知らなければ、成長できない、「美」に気づいて、それを享受できないばかりでなく、人を、生きとし生けるものを、真に「愛」することもできません。
実は「哀」と「愛」と「美」が一体化しているのが、実は金子みすゞの詩なのです。
それを風花流では「慈哀美(じあいび)」と呼ぶのですが、それについては後ほど述べます。
慈(いつくしむ)
日本の近代・現代詩人の中で「愛の詩人」と呼べるのは、金子みすゞ、宮沢賢治、高村光太郎でありましょう。
高村光太郎は、精神を病んだ、妻の智恵子をうたった「智恵子抄」が代表作。
「智恵子抄」は、紛れもない傑作ですが、極めて特殊な状況下で制作されており、高村光太郎の愛の「方程式化」、つまり「一般人がその真実を自分の生活においてプラスに応用する」のは困難なので、今回は取り上げません。
今回の企画「希望の方程式」では「愛の詩人」として金子みすゞと宮沢賢治を取り上げます。
金子みすゞの詩には、根源的な愛、生きとし生けるものへの純粋な愛が息づいています。
金子みすゞの詩は「命への根源的な愛」を直接、表現していることに、他の詩人には見いだせない特徴があります。
命に対する感受性の強さ、特異な感性の働きは、金子みすゞの詩を解読する上で、絶対に見逃してはなりません。
事実上のデビュー作「お魚」からも、「命の根源的な愛」を感じ取れるのです。
「お魚」については後ほど述べます。
宮沢賢治は近代詩人の中で、唯一、個人の愛を超越した「大きな愛」を主張した人です。
抗(あらがう)
「抗う」は「反抗する」という意味。
「反抗する」には、以下の2つの行動があります。
政治や社会(外なる世界)に反抗する。
自分自身(内なる世界)に反抗する。
外なる世界への反抗においては、独りではなく、連帯することも必要です。
和(わする)
「和する」という言葉は単なる「調和」を意味するだけでなく、以下のようなプラスの現象、ポジティブな変容が凝縮されているのです。
「笑顔になる」
「心が響き合う」
「連帯する」
「歓ぶ」
「幸福になる」
「美しくなる(美を享受する・美を生み出す・自分も他者も美しくする)」「安らぐ(安寧を得る)」
「平和になる」
「『すべて、だいじょうぶ』になる」
「『まどか』になる」
最後に「『まどか』になる」とあげましたが、これは風花未来がライフワークとして提唱している「まどか」の考え方と、同じだと思っていただいても問題ありません。
「まどか」とは、愛が満ち満ちで心が円く和むこと。
「まどか」については、以下のページをご参照ください。
では、今回の「希望の方程式」を創造するために取り上げている、3人のキーマンをご紹介しましょう。
金子みすゞ、宮沢賢治、アルベール・カミュ
金子みすゞ、宮沢賢治、アルベール・カミュ、いずれも魅力あふれる人物であり、時代を超えて私たちの魂を揺さぶるパワーがあるのが特長。
以下、この3人について、Wikipediaからの引用の後に、風花未来の独自の見解を述べます。
3人について理解することは、それだけで有意義です。
ただ、それだけでは、不充分。
3人の個別の研究書はすでに多数出版されていますが、あくまで個別研究で終わっています。
3人の功績、即ち私たち2020年代という難しい時代に生きる者たちに渡された光のバトン、それを、今に、そして未来に生かしてゆくことが大事。
3人の共通項を見出し、それをつなげて、希望の未来への道筋を示した著作物は、一冊もありません。
だから、風花未来は、3人をつなげて、大胆に「希望の方程式」を創造しようとしているのです。
金子みすゞ(哀しみを歌う愛の詩人)
金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年〈明治36年〉4月7日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。約500編の詩を遺した。
没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ。
西條八十に激賞された幻の童謡詩人とされている。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。
金子みすゞの詩に脈打つ「うつくしみ」の心と世界観
私は金子みすゞの詩の世界を「慈哀美(じあいび)」と称しています。
金子みすゞの詩は、生きとし生けるものへの慈しみと、愛深きがゆえの哀しみを、優れた技法(擬人法・視点移動など)を駆使し、魂と宇宙との調和を祈る、独自の「美(うつく)しみ」の世界を表現しています。
美は調和によって生み出されますから、「美」は「和」に近い概念だとご理解ください。
「慈哀美(じあいび)」の完成形を示す、金子みすゞの「鯨法会(くじらほうえ)」という詩をご紹介する前に、金子みすゞの原点を見直してみましょう。
「お魚」は、金子みすゞの哀しみの原点
金子みすゞの「お魚(さかな)」という詩をご紹介します。
お魚
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛は牧場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
金子みすゞが生まれたのは、山口県大津郡仙崎(せんざき)村(現・長門市仙崎)。仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧・大津郡仙崎町一帯を指します。
仙崎は海に近い町。金子みすゞは漁師町で育ったために、みすゞの詩には、ひんぱんに海や魚が登場するのです。
「お魚」は「金子みすゞの実質的デビュー作と言える」と、松本侑子氏は「100分de名著 金子みすゞ詩集」の中で書いておられます。
デビュー作と言われますと、確かに「お魚」は、実に素朴な詩ですね。幼い子供が素直に感じたことをつぶやいた、という感じがします。
ただ、素直すぎて、詩としては未熟ではないかと、一方で思い始めた瞬間、「いやいや、ここに金子みすゞの凄さがある」と思い直したのでした。
私が書いた「詩心回帰」には「詩心の7つの美点」というものがあり、その美点の一つに「物事の核心を見抜く鋭い直観力」をあげています。
そう、金子みすゞの「直観力」は半端ない、と気づかせてくれるのが、この詩「お魚」なのですね。
「お魚」では、いわば「人生の不条理」が歌われているわけですが、「ほんとに魚はかわいそう」と金子みすゞに言われてしまうと、もう、感想も容易には書けなくなってしまいます。
途方に暮れて空を見つめ、深いため息をつきたくなってしまうのが、この「お魚」です。
日常生活で私が、うかつに「愛」だとか「自然との共生」だとか「動物愛護」だとかいう言葉を使えないと思うのは、まさに金子みすゞが「ほんとに魚はかわいそう」と嘆いた、その気持ちが私にもあるからです。
「魂と宇宙との調和」を目指すのが真の詩人の姿であると、最近、強く思うようになっています。
この姿勢は、きれいごととは程遠く、善も悪も、仏も邪鬼も、天使も悪魔も、愛も憎悪も、みいんなまるごと受け入れることが前提となっているのです。
つまり、詩人は容易ならぬ「愛と苦悩の道」を選択せざるをえない宿命を背負っているとも言えます。
途方もない混沌と葛藤の中でも、なお「調和」を願い、苦悩し続けるのが詩人。
その「苦悩」の源泉にあるのが、人間は命あるものを殺して食べている、残酷な生き物であるという事実にほかなりません。
詩人は「魂と宇宙との調和」を目指す。その「調和」の中には、私たちが毎日、生きとし生けるものの生命を奪い、食べていることも含まれるわけですね。
例えば、私が親であり、幼い娘が金子みすゞだとしましょう。娘のみすゞに「ほんとに魚はかわいそう」と言われたら、親である私はどのように反応したら良いのか、どんな言葉をみすゞに返したら良いのか……。
想えば、簡単に返答できないこと、返答に窮すること(不条理なこと)が、世の中には少なくありません。
詩人には「命の根本的な問い」を見つけて提示する役割が与えられています。が、その「問い」に、数学の解答のように「結論」を出すことは、詩人とて、無理ではないでしょうか。
小説にはエンターテイメントと純文学があるが、明確な答えを出すのがエンタメで、結論を言わないのが純文学だ、と私に教えてくれた作家がいました。
とてもとても、人生に結論なんか出せません。それが私の率直な気持ちです。
人生は当てのない旅である、といつも思っている私なので、結論を出すために生きようとは思いません。ただ、あるがままをそのままを、まるごと受け入れようとは思っています。
そして、「希望の未来」を希求することはできるし、実際に「希望の未来」を実現する道は決して閉ざされてはいない、と風花未来は信じています。
なぜなら、私は「余命3ヶ月宣告」を受けてから、私自身の魂レベルで、スイッチが入り、それ以降、「希望の方程式」通りに、心と体の純度を高く保って暮らしていると、次々に奇跡が起きているからです。
化学療法(抗がん剤投与)しか治療法がなかったのが、癌が小さくなったために、選択肢が増え、希望の光が指してきています。
「日本はもう終わっている、日本に希望などない」という人がいますが、そうではありません。
あなたが、希望なのです。それを、信じてください。
今、信じられなければ、信じられるまで、風花未来とお付き合いください。
あきらめたら、おしまい。
今現在、辛い状況にあっても、粘りましょう。もちこたえましょう。
話を元に戻しますね。
突然、愛する娘さんに、痛いところを突かれた時、あなたはどうしますか?
私はというと……金子みすゞに「ほんとに魚はかわいそう」と言われたら、以前なら、苦笑して「そうだね」と応えるぐらいしかできなかったのですが、今ならば「希望の方程式」にのっとって、私なりの答えができると確信しています。
「ほんとに魚はかわいそう」という不条理にぶちあたる、それは人生のスタートラインに立つことかもしれません。
ノーベル文学賞作家のアルベール・カミュは、「不条理と反抗の人」と言われるます。不条理をテーマにした哲学的エッセイ「シーシュポスの神話」を執筆中、何度も自殺への誘惑にかられたとのこと。
カミュが「不条理」の壁にぶちあたって苦しんだことは、金子みすゞ的に言えば、この世にはどうすることもできない、根源的な深い「哀しみ」があることを知った、ということになるわけであります。
ともあれ、私は「お魚」「大漁」「鯨法会」の三篇を「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」と呼んでいます。
「希望の方程式」を実践して成果を上げていただくために、「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」を、まるで幼子のような無垢な心で、魂の純度を上げて、お読みいただくことをおすすめします。
宮沢賢治(大きな愛を唱え実践しようとした人)
宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年〈明治29年〉8月27日 - 1933年〈昭和8年〉9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。
彼の作品は生前、詩壇の中では高く評価する者もいたが、終生文壇圏外にあって岩手県で教師・農業指導者・技師としての活動を続けていたため、一般には無名に近い存在であった。
没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。
宮澤賢治は「愛」を銀河系まで…
もう一人の「愛と苦悩の詩人」である、宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と『農民芸術概論概要』で書いています。
「世界がぜんたい幸福」は「世界全体が幸福に」という意味ですね。
この有名な宮沢賢治の言葉から「利他愛」を連想する人は、多いのではないでしょうか。
さらに有名な詩「雨ニモマケズ」では、他者のために生きたいと願う、利他の精神がつづられているともとれます。
不思議なのは、私は私自身が詩作にのめりこんでいた二十代の頃は、この「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉には欺瞞があるのではないか、と否定的にとられていたのです。
なぜ、素直に受け入れられなかったのか。
人は誰もがエゴイストであり、極限状況では、自分の命を守ることが精いっぱいで、他者を殺してでも自分が生き延びようとするだろう。だから、宮沢賢治の言葉はきれいごとではないか、と当時の私は思い込んでいたのでしょう。
ところが、世の辛酸をなめつつ歳を重ねてきた今現在は、逆に宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、そもそも自己愛か利他愛かという次元から発していない。
また、愛において「個人」と「世界全体」を対比、連結させて、利己愛や利他愛を超越した「大いなる愛の在り方」を説いた、極めて客観的な正論であることに、ようやく気づき、なるほどと納得するようになってきているのです。
そもそも「愛」は「利己」と「利他」の2つにだけ分けて考えるものではありません。異なる次元の「大きな愛」もあります。実は、この「大きな愛」こそが私たち現代人には必要なのではないでしょうか。
宮沢賢治の先ほどの言葉が書かれた『農民芸術概論概要』を、もう少し長く引用してみましょう。
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう 求道すでに道である
いかがでしょうか?
「個人」「自我」に対して「集団社会宇宙」「銀河系」という大きな世界が提示されていることに注目してください。
短く言うなら、人間の幸福は、自己と宇宙との調和の中に存在する、となるでしょうか。
アルベール・カミュ(連帯・反抗を訴え政治し平和を祈念した作家)
アルベール・カミュ(フランス語: Albert Camus、フランス語発音: [albɛʁ kamy] ( 音声ファイル)、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者、随筆家、記者、評論家。
フランス領アルジェリア出身。第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を打ち出して注目され、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。
また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。
戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなり、エッセイ『反抗的人間(フランス語版、英語版)』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。
アルベール・カミュの名言「我反抗す、ゆえに我らあり」
カミュは作家ですが「政治に参加した作家」「反抗した作家」であるという特徴を、まず知るべきです。
カミュは「不条理と反抗」の作家と呼ばれます。
しかし、誰も語らないのですが、もっと大事なことは、カミュは「不条理」を自分なりの方法で克服し、反抗によって「平和」を訴えたことです。
「不条理」や「反抗」だけなら、人生は苦悩だけの茨の道となります。カミュが「不条理と反抗」だけの作家なら、読む価値はありますまい。
だが、カミュはあふれんばかりの「愛」を抱きつつ、意味のない人生に意味を見出して不条理を克服し、「反抗」によって生み出すべき「平和で幸福な未来」を希求したのです。
だから、カミュは今もなお、多くの人たちに愛読されている、そのことに私たちは気づくべきでしょう。
ノーベル文学賞を受賞したレジスタンス作家である、アルベール・カミュの言葉を肝に銘じましょう。
我反抗す、ゆえに我らあり。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のモジリですが、カミュは「我あり」ではなく「我らあり」としたことに注目してください。
カミュの代表的な評論「反抗的人間」(1951年)に出てくる言葉であり、名作小説「ペスト」の主題を、象徴的にあらわすのが、この「我反抗す、ゆえに我らあり」です。
「不条理と絶望から連帯と反抗へ」を小説と哲学で主張した、レジスタンス運動に参加した作家でもある、アルベール・カミュらしい言葉であります。
私たちの国民運動の合言葉として「我反抗す、ゆえに我らあり」を日常的にたくさん使って語り合い、力強く広げてゆきましょう。
カミュの著作は多数ありますが、私がここで語ったことに関連するのは、小説「ペスト」と哲学書「反抗的人間」です。
「ペスト」と「反抗的人間」に共通するキーワードは「反抗」「連帯」。
一方「異邦人」と「シーシュポスの神話」に共通するキーワードは「絶望」「不条理」であります。
詩人でノーベル文学賞を受賞した政治家、パブロ・ネルーダという存在
優れた詩人でもあった、政治家のパブロ・ネルーダの存在も知っておいてください。
パブロ・ネルーダに関する記事は以下から、どうぞ。
⇒パブロ・ネルーダ(笠木透 訳)の詩「おいで一緒に(山と川)」
動画でも、3回、パブロ・ネルーダを取り上げています。
●パブロ・ネルーダについて、言い忘れてしまった、とっても大事こと
「令和のレジスタンス(国民が主役de政権交代)」を始めよう!
戦争を阻止し、経済を復興し、国民の豊かな生活をかなえるには、正しい経済政策を掲げ、国民の幸福を願って汗を流す、庶民の味方である、「正しい経済政策+反グローバリズム」を軸とした新政権の樹立しかありません!
正しい貨幣観、正しい財政観、「税は財源ではない」を理解し、国民の負担を軽減する、税制、社会保険制度を実施する、国民を守る政治家は、私たち国民が育てるしかありません。
グローバリストの定義を、風花未来は以下のようにわかりやすく定義しました。
グローバリストとは、一般大衆をあらゆる方法で洗脳し、弱体化して支配し、利益を独占しようとする、ごく一部の権力者のこと
「グローバリズム」という言葉には「世界全体から戦争をなくし、人民を幸福に導く思想」というような人道的・建設的な意味は全くなく、「世界をまるごと支配し、自分たちだけ富裕になればいい」という、悪魔的な利己主義が「グローバリズム」だと思った方が賢明です。
具体的には、国際金融資本、軍産複合体、多国籍企業、エネルギーメジャーなどを指しますが、売国政党(政治家)、グローバリストと結託する個人なども含む場合もあります。
反グローバリズム運動の(風花未来が独自にした)定義は、以下のとおり。
「反グローバリズム運動」とは、一部の支配者層(1%のグローバリスト)による大多数の庶民(99%の一般大衆)への経済および精神の圧迫・統治支配に反抗し、私たち一人ひとりの主権を回復し、経済と心の豊かさの復興を目指す運動のこと
短くすれば「自分たちの利権のために日本を売り飛ばし、自分の利益のみを追求し、国民を苦しめ続ける勢力への反抗運動」となります。
「グローバリスト」とは「ごく一部の悪辣な支配者層」「世界を支配する1%の富裕層」を指します。
「グローバリズム」「グローバリスト」という言葉自体があいまいなので、できるかぎり、他の言葉で表現した方がいいかもしれません。
以下のように「グローバリスト」と定義したら、伝わりやすくなるでしょうか?
高度な頭脳と戦略を持つ、戦争を平気で利用する、人の命を限界まで軽視する、人民コントロール、世界支配オタクである1%の悪魔たち
とにもかくにも、売国政党、売国政治家を、日本から一掃しなければなりません。
要するに「人間復興(自分が自分らしく、人が人らしく生きられる社会)実現のための反抗運動」なのです。
単なる政治運動ではなく、党利党略を超えた、私たち国民による現代進行形のレジスタンス(反抗運動)なのです。
その意味から、この運動を風花未来は「令和のレジスタンス(旧名は『国民が主役de政権交代』)」と呼ぶことにしました。
レジスタンスの合言葉は「我反抗す、ゆえに我らあり」
ノーベル文学賞を受賞したレジスタンス作家である、アルベール・カミュの言葉を肝に銘じましょう。
我反抗す、ゆえに我らあり。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のモジリですが、カミュは「我あり」ではなく「我らあり」としたことに注目してください。
カミュの代表的な評論「反抗的人間」(1951年)に出てくる言葉であり、名作小説「ペスト」の主題を、象徴的にあらわすのが、この「我反抗す、ゆえに我らあり」です。
孤独と絶望から連帯と反抗を小説と哲学で主張した、レジスタンス運動に参加した作家でもある、アルベール・カミュらしい言葉であります。
私たちの国民運動の合言葉として「我反抗す、ゆえに我らあり」を日常的にたくさん使って語り合い、力強く広げてゆきましょう。
海外のグローバリストに直接、反抗するのは難しい。敵は眼に見えず、しかも、あまりのも強大だから。
しかし、反抗の手立てはあります。日本の政治家、コメンテーターの中に、グローバリストの手先があるので、彼らを標的にすれば、意思統一がしやすい。
日本国内の政治にウォッチングする時、特に警戒すべきは、保守を偽装する者たちの策謀です。
似非(えせ)保守・売国保守・自民党補完保守・ビジネス保守・イデオロギー保守などなど……。
なぜなら、それらの保守を偽装する者たちの多くは、海外のグローバリストたちの手先となり、日本を売り渡すことも平気で行うのです。その日本国民への裏切り行為を完遂するために、国民を無力化させようとします。
なぜ国民を無力化したいか? グローバリズム勢力(支配者層)が国民を支配しやすくしたいからです。
そのために、狡猾な手練手管で、国民一人ひとりの覚醒と成長を巧みに阻止しようと行動しているので、注意しなけらばなりません。
そこで風花未来は「平和」を守ることを大前提とした「正しい経済政策+反グローバリズム」勢力の拡大による政権交代につながる提言を、バージョンアップして継続ことに決めました。
この国民運動を「令和のレジスタンス(旧名は『国民が主役de政権交代』)」と呼びたいのです。
ここで言う「平和」とは、イデオロギーの中で使われてきた欺瞞に満ちた意味ではありません。
平和とは単に戦争をしないことだけでなく、自立を前提とした調和という精神的な意味をも持ち、それを風花未来は「まどか」と呼びます。
「まどか=自立+調和」を学問化したのが、「まどか学」です。
「まどか」を基調低音とする、経済と心の復興を目指す政治運動、そのタイトルは「令和のレジスタンス(旧名は『国民が主役de政権交代』)」といたします。
もちろん、政権交代が最終目的ではありません。その後に、国民主権をかなえる、健全な政治を実現(国民主権の国づくりを)しなければならないのです。
ここで私は、特定の政党や政治家の支援活動をしましょう、と強く主張するつもりはありません。
政治参加と一口で言っても、さまざまなスタイルがあります。
政党に関わらなくても、社会活動の幅は広いですよ。
風花未来は基本、超党派(政党や団体に属さないスタンス)で活動します。
視野を広く持って、偏った情報に飛びつくことなく、視点移動して多角的に、ご自身の頭でよく考えて、意思決定し、行動したいものです。
ご自身に合った活動スタイルを見つけないと、無理が生じ、健康を害したり、生活に支障をきたすことになりかねませんので、ご注意ください。
私は政治をテーマに5年ほど活動しましたが、気づけば「末期がん」になってしまいました。
くれぐれも、過度なストレスには、ご注意を!
政治活動に関しては、以下のページにまとめましたので、ご参照ください。
では、以下では、これまでの話を復習してみましょう。
希望の方程式の復習
哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する
略して「哀慈抗和(あいじこうわ)」と呼びます。
以上が「希望の方程式」です。
この「哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する」という方程式を、一つの文(1分で間)で説明なら、以下のようになります。
「希望の方程式」を1分間で説明すると
哀しみを覚え、慈しみ、愛を知れば、より深い哀しみを知ることになり、愛と哀しみを前向きに生かすためには、自分自身に抗い(反抗)し、自分に打ち勝ち、時には社会に反抗し、常に深い哀しみ抱きつづけ、自らの愛を自分だけでなく他者をも慈しむ大きな愛(まどか愛)を分かち合う(共有する、共に享受する)和の精神を持って自らを成長させてゆけば、希望の未来への道は開けてくる。
では、以下では「哀」「慈」「抗」「和」という4つのキーワードについて、ご説明します。
哀(かなしむ)
「哀」しみは人生の中で、ネガティブ要因だとも言えます。深い哀しみに打ちひしがれていれば、寝込んでしまったり、精神を病んでしまったり、最悪の場合には自死してしまう場合もあります。
しかし、「哀」しみを知らなければ人は成長できません。
あの偉大な彫刻家であるロダンは「哀しみを捨ててはいけない。哀しみを忘れると人は無訓練になり、成長できないで堕落してしまう」という意味のことを言っています。
また、あの映画「街の灯」「独裁者」「ライムライト」などの映画監督であり、役者であるチャップリンは「美しさの中には必ず哀しみがある」と発言しているのですね。
そう、「哀」しみは「美」へと通じる、避けては通れない道だとも言えます。
「哀」しみを知らなければ、成長できない、「美」に気づいて、それを享受できないばかりでなく、真に人を、生きとし生けるものを「愛」することもできません。
「哀」と「愛」と「美」が一体化しているのが、実は金子みすゞの詩なのです。
そのことを語ったのが、以下の記事なので、ご確認ください。
⇒金子みすゞの詩「鯨法会」は「慈哀美(じあいび)」の完成形。美しさと哀しみと慈しみ(愛)は一体
慈(いつくしむ)
日本の近代・現代詩人の中で「愛の詩人」と呼べるのは、金子みすゞ、宮沢賢治、高村光太郎でありましょう。
金子みすゞの詩には、根源的な愛、生きとし生けるものへの純粋な愛が息づいています。
金子みすゞの詩は「命への根源的な愛」を直接的に表現していることに、他の詩人には見いだせない特徴があります。
命に対する感受性の強さ、特異な感性の働きは、金子みすゞの詩を解読する上で、絶対に見逃してはなりません。
名作として知られる「大漁」からも、「命の根源的な愛」を感じ取ることができます。
⇒デビュー作「お魚」に、金子みすゞの末恐ろしい才能を感じる理由
宮沢賢治は近代詩人の中で、唯一、個人の愛を超越した「大きな愛」を主張した人です。
それについては、以下の記事で言及しておりますので、ご一読ください。
抗(あらがう)
「抗う」は「反抗する」という意味。
「反抗する」には、以下の2つの行動があります。
政治や社会(外なる世界)に反抗する。
自分自身(内なる世界)に反抗する。
外なる世界への反抗においては、独りではなく、連帯することも必要です。
この反抗運動を風花未来は「令和のレジスタンス(旧名は『国民が主役de政権交代』)」と呼ぶことにしました。
和(わする)
「和する」という言葉は単なる「調和」を意味するだけでなく、以下のようなプラスの現象、ポジティブな変容が凝縮されているのです。
「心が響き合う」
「連帯する」
「歓ぶ」
「幸福になる」
「美しくなる(美を享受する・美を生み出す・自分を他者を美しくする)」「安らぐ(安寧を得る)」
「平和になる」
風花未来がライフワークとして提唱している「まどか」の考え方と、同じだと思っていただいても問題ありません。
「まどか」とは、愛が満ち満ちで心が円く和むこと。
「まどか」については、以下のページをご参照ください。
ここで「和」は、風花未来の造語で表現するなら「愛歓美」となります。
「愛歓美」=「まどか」とイメージしてください。
愛と歓びと美が一体となった世界が「まどか」なのです。
繰り返します。
「まどか」とは「愛が満ちみちて、円(まる)く和(なご)むこと」。
ですから「まどか」は「まどか(愛満⇒円和)」とも表記します。
また「まどか」を「愛歓美」と記す場合もあるのです。愛と歓びと美が一体となった世界が「まどか」。
以下の記事をご参照ください。
「和」の状態、「大きな愛」については、以下のページをご確認ください。
⇒まどか愛
では以下で、もう一度、金子みすゞの世界を観ながら、思索を深め、要点をまとめてみましょう。
金子みすゞの詩「鯨法会」は「慈哀美(じあいび)」の完成形。
では、「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」の中で、最も完成度の高い「鯨法会」という詩をご紹介しましょう。
鯨法会
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚とれるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁師が羽織り着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
鯨法会とは
まずは、鯨法会(くじらほうえ)とは何か、についてお伝えします。
鯨法会とは、鯨漁が盛んだった地域で行われていた伝統的な行事です。鯨への感謝の気持ちを捧げ、慰霊する法要で、金子みすゞの故郷では今もなお行われています。
金子みすゞが生まれたのは、山口県大津郡仙崎(せんざき)村(現・長門市仙崎)。仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧・大津郡仙崎町一帯を指します。
このあたりは昔、鯨漁(捕鯨漁)で賑わっていたのです。江戸時代から明治の終わり頃まで続けられていたそうです。
金子みすゞは1903年(明治36年)に生まれ、1930年(昭和5年)まで生きた人。みすゞの生まれ育ったまちは、漁師町でそこでは鯨漁が盛んで、「鯨法会」というお祭りが行われていた、このことは「鯨法会」という詩を理解する上での予備知識として持っておいた方がいいでしょう。
鯨の子どもを葬った「鯨墓」
もう一つこの「鯨法会」という詩の予備知識として必要なのは「鯨墓(くじらばか)」です。
「鯨墓」は、金子みすゞの郷里である、山口県長門市にあります。捕った鯨の胎内に胎児がいた場合にそれを葬るもので、この墓には70数頭が眠ってるとのこと。
墓碑には「生きるためにやむを得ず命を奪ってしまったがどうか成仏してほしい」という文字が刻まれています。
現在、金子みすゞが生まれた仙崎には「鯨母子の像」が建てられています。
金子みすゞの詩「鯨法会」には親鯨の死を嘆く子どもの鯨が出てきますが、「鯨墓」と「鯨母子の像」のことを想いうかべると、理解しやすいと思います。
金子みすゞの詩の源泉とは
この金子みすゞの詩「鯨法会」を読んで、ハッと気づいたことがありました。
この詩はとにかく哀しいんですね。哀切の調べが、読む側の胸に響き、いつまでも消えません。いつまでも消えないということは、金子みすゞの「哀しみ」は深く、大きく、みすゞの人生の根源から湧き出ているのではないかと直観したのです。
では、どこから、金子みすゞの「哀しみ」は湧き上がってくるのでしょうか。
金子みすゞの生きとし生けるものへの愛情の強さは、並大抵のものではありません。
生けるものへの愛が大きければ大きいほど、深ければ深いほど、生けるものを殺して食べるという人間の宿業が哀しい。
その人間の宿命、業の深さへの哀しみは、金子みすゞ自身が「生きてあること、そのものへの哀しみ」へと強震しているのが、この詩「鯨法会」を読むと、手に取るようにわかるのです。
金子みすゞは「お魚」という詩で、みすゞに食べられてしまう魚の哀れさを歌いました。
こうしてわたしに食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
「お魚」という詩は「金子みすゞの実質的デビュー作と言える」と松本侑子氏は「100分de名著 金子みすゞ詩集」の中で書いておられます。
デビュー作には、作家の原点があり、全作品を貫く本質が息づいている、とはよく言われることです。
金子みすゞはそのデビュー作で、みすゞの詩の精髄を無意識のうちに表出したのでしょう。
金子みすゞの詩の精髄は「命への愛おしみ」と「哀しみ」。その「哀しみ」の源泉が、この「鯨法会」にあると言って間違いないでしょう。
私は「お魚」「大漁」「鯨法会」の三篇を「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」と呼んでいます。
繰り返しになりますが、金子みすゞの愛は人一倍大きい。愛が深ければ深いほど、哀しみも深く大きいのです。
「かなしむ」は【悲しむ/哀しむ/愛しむ】とも書きます。哀しむことと愛することは、分けられないほど強く結びついているのですね。
また、「うつくしむ」は【慈しむ/愛しむ】とも書きます。 したがって、美しさと哀しみと慈しみ(愛)は、ほぼ一体ということでしょうか。
その意味(視点)から、私は金子みすゞの世界を「慈哀美(じあいび)」と呼びたいのです。
「慈哀美」については以下のページで詳しく述べておりますので、ご確認ください。
「お魚」にも、「哀しみの源泉」はありますが、作品としてはまだ素朴。「鯨法会」は詩作品としての完成度が高まり、名作と賞賛させるにふさわしい出来栄えとなっています。
深い哀しみは、みすゞの魂を震わせます。その震えを、鐘の音と水面の波立ちとして表現したことが素晴らしい。
鐘の音も、波も「震え」ですからね。その「震え」は金子みすゞの「魂の震え」であり、愛しきものへの愛情と生きることの宿業と哀しみが、完成された音楽のように響いてきて、感動を禁じ得ません。
また、以下の「擬人法」も実に効いている。
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
人間ではないものを、人と同じ感情があるものとして描く「擬人法」を、金子みすゞは他の作品でも多く使っていますが、この「鯨法会」での「擬人法」の冴えは見事です。
鐘の鳴る音を聴きながら、鯨の子供が泣いているのを、上の四行で表現した、みすゞの手腕は大したものです。こういう表現は、できそうで、なかなかできるものではありません。
以上の理由から、この詩「鯨法会」は、原点の「お魚」を進化発展させた、金子みすゞの代表作、そして日本近代史の名作であると、私は評価いたします。
金子みすゞの愛が深ければ深いほど、哀しみも深く大きい。
「かなしむ」は【悲しむ/哀しむ/愛しむ】とも書きます。哀しむことと愛することは、分けられないほど強く結びついているのですね。
また、「うつくしむ」は【慈しむ/愛しむ】とも書きます。 古語の 「うつくし」は 【愛し/美し】と書くのです。
したがって、美しさと慈しみ(愛しみ)は、お隣さん以上の関係、ほぼ一体と見て差し支えないでしょう。
その意味(視点)から、私は金子みすゞの世界を「慈哀美(じあいび)」と呼びたいのです。
「うつくしみ」は「慈しみ」とも「愛しみ」とも書きますが、私は独自に「うつくしみ」を「美しみ」と書くことにしました。
「うつくしみ」
慈(うつく)しみ
哀(うつく)しみ
美(うつく)しみ
※以上は、風花未来の独自の当て字です
愛と哀の美への昇華、それが「うつくしみ」の世界であり、「慈美哀」なのです。
※「慈美哀」「うつくしみの世界」は、私、風花未来の造語です。
以上が、金子みすゞの詩にある「きらめきの秘密」にほかなりません。
私は自分の考えを押し付けたいのではありません。優れた詩の3要素を結晶化させつつ到達した「うつくしみ」の世界である「慈哀美」こそ、私たち現代人に最も必要なのではないでしょうか。
金子みすゞの詩は「慈哀美」が輝く「光のバトン」です。みすゞの詩に感動することで受け取った「光のバトン」を、私たちの未来に具体的に生かしてゆきたい、と私は誓っています。
その誓いが、私の提唱する「詩心回帰=まあるい未来」と「まどか(円和)」の根幹にあるのです。
私たちが困難な時代にあって幸せになるためには、金子みすゞの「うつくしみ」と「慈哀美」を、どのように発展させ、「希望の未来」をつくってゆくかにかかっています。
その「希望の未来」のキーワードが「まどか」なのです。
「哀慈抗和」の「和」は、「まどか」と同じと考えてください。
以上で、金子みすゞの世界と「希望の方程式」との関連性の説明を終了します。
金子みすゞの世界は、以下のリンク集をもとに、楽しんでみてください。
「希望の方程式」まとめ。慈哀美+愛歓美=まどか
では、最後に「希望の方程式」のまとめをしますね。
「希望の方程式」とは「和」を目指して、自分の人生をポジティブに楽しむノウハウです。
金子みすゞの世界である「慈哀美」の「哀しみ」を「歓び」に変えてゆくのが「まどか」のメインテーマです。
そのため「まどか」の世界を「愛歓美(あいかんび)」とも呼びます。
もう一度「希望の方程式」を、確認してください。
哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する
この希望の方程式「哀慈抗和(あいじこうわ)」の「和」が「まどか」にあたります。
「歓び」は「和」の一つのカタチでしたね。
「和」は以下の状態を指します。
「和」とは
「心が響き合う」
「連帯する」
「歓ぶ」
「幸福になる」
「美しくなる(美を享受する・美を生み出す・自分を他者を美しくする)」
「安らぐ(安寧を得る)」
「平和になる」
「まどか」の別称である「愛歓美」とは、愛と歓びと美が一体化した世界のこと。
「慈哀美(じあいび)」は「うつくしみの世界」
「愛歓美(あいかんび)」は「よろこびの世界」
金子みすゞの詩は「うつくしみの世界」であり、そこには「慈哀美」が息づく。
「まどか」は「よろこびの世界」であり、そこには「愛歓美」が輝く。
「哀」が「歓」に変わりましたよね。
「まどか」の真ん中には「歓び」がある。真ん中にいつも「歓び」がある、美しく幸せな世界が「まどか」なのです。
「まどか」なる世界をかなえるためには、「慈哀美」と「愛歓美」の両方が必要です。「よろこびの世界」は「うつくしみの世界」を踏まえなければ、実現できません。
以下のように覚えてください。これも「希望の方程式」の一つです。
慈哀美+愛歓美=まどか
以上の理由から、「慈哀美(うつくしみの世界)」と「愛歓美(よろこびの世界)」は対をなす、「まどか学(幸せを生む未来創造学)」の最重要キーワードであると憶えてください。
「まどか学」は「風花まどか大学」で、お伝えしています。
この機会に、以下の4つの風花未来の独自熟語(キーワード)を憶えてください。
愛満円和(あいまんえんわ)=まどか・まどか愛
慈哀美(じあいび)⇒うつくしみの世界・金子みすゞの世界
愛歓美(あいかんび)⇒よろこびの世界・風花未来の世界
哀慈抗和(あいじこうわ)=希望の方程式
哀しむ⇔慈しむ⇔抗う⇒和する
この「希望の方程式」は、風花未来が提唱する「詩心回帰」「まどか」「まどか学」を継承する、人生のアクションプラン(行動指針)に他なりません。
もちろん、以上のことを、すぐにはご理解いただけないかもしれませんが、粘り強く学んでくだされば、必ずや、わかってくださる、実生活で活用していただけると、風花未来は期待しています。
ただ今、風花未来は「希望の方程式」を実践中!
風花未来は2024年の12月4日に、主治医より「余命3ヶ月宣告」を受けました。
その直前に「風花シン党」を立ち上げたのですが、直後に抗がん剤投与が開始され、ほとんど寝たきり状態となって、政治的活動は断念せざるを得ませんでした。
しかし、逆に、風花未来の魂の純度は格段に上がりました。
風花未来の表現の原点である「詩作」を再開。26歳の時に自分の人生を決定する事件が起きて、詩作をやめたのですが、20代の時以上の頻度で詩が書けています。
これも奇跡の一つでしょうけれども、次々に奇跡が起き、癌が縮小して余命は伸び、治療法の選択肢も増えそうです。
現在、風花未来に起きている奇跡は、最近の詩の中に出てきますので、お読みいただけたら幸いです。
このように奇跡を起こす原動力は「希望の方程式」に他なりません。
ふだんは意識していなくても、無意識レベルで、「希望の方程式」通りに、感じ取り、考え、行動しているのです。
その意味で「希望の方程式」の最も忠実な実践者は、この指標を考案した風花未来自身だと言えます。
愛こそ、すべて! 愛を増やしてゆきましょう!
希望の未来を創造するためには、「希望の方程式」の実践で、あなたに成果を上げていただくためには、「愛がすべて」くらいの気持ちを持っていただきたい。
そのことを動画でも解説しておりますので、ご参照ください。
風花未来は「まどか愛」を提唱していますので、以下のページでご確認をお願いします。
⇒まどか愛
もっと単純に申し上げるなら、希望の未来のために「愛を増やしてゆきましょう」ということです。
「愛を増やそう」という詩を風花未来は書いております。その詩を「風花シン党」のテーマ曲ともに、風花未来が朗読しているのが、以下の動画ですので、ぜひ、ご視聴ください。
それでは、冒頭にお伝えした通り、「ループ学習」により、ぜひとも「希望の方程式」で、成果を上げてただくことを祈念して、今回の「超絶ワンテーマ企画」を終えることにいたします。