金子みすゞの「お魚(さかな)」というをご紹介します。

 

お魚

 

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、

牛は牧場でかわれてる、

こいもお池でふをもらう。

 

けれども海のお魚は

なんにも世話にならないし

いたずら一つしないのに

こうしてわたしに食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

 

金子みすゞは、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)に生まれました。

 

仙崎は海に近い町。金子みすゞは漁師町で育ったために、みすゞの詩には、ひんぱんに海や魚が登場するのです。

 

「お魚」は「金子みすゞの実質的デビュー作と言える」と、松本侑子氏は「100分de名著 金子みすゞ詩集」の中で書いておられます。

 

デビュー作と言われますと、確かに「お魚」は、実に素朴な詩ですね。幼い子供が素直に感じたことをつぶやいた、という感じがします。

 

ただ、素直すぎて、詩としては未熟ではないかと、一方で思い始めた瞬間、「いやいや、ここに金子みすゞの凄さがある」と思い直したのでした。

私が書いた「詩心回帰」には「詩心の7つの美点」というものがあり、その美点の一つに「物事の核心を見抜く鋭い直観力」をあげています。

 

「詩心の定義と7つの特長」

 

そう、金子みすゞの「直観力」は半端ない、と気づかせてくれるのが、この詩「お魚」なのですね。

 

「お魚」では、いわば「人生の不条理」が歌われているわけですが、「ほんとに魚はかわいそう」と金子みすゞに言われてしまうと、もう、感想も容易には書けなくなってしまいます。

 

途方に暮れて空を見つめ、深いため息をつきたくなってしまうのが、この「お魚」です。

 

日常生活で私が、うかつに「愛」だとか「自然との共生」だとか「動物愛護」だとかいう言葉を使えないと思うのは、まさに金子みすゞが「ほんとに魚はかわいそう」と嘆いた、その気持ちが私にもあるからです。

 

魂と宇宙との調和」を目指すのが真の詩人の姿であると、最近、強く思うようになっています。この姿勢は、きれいごととは程遠く、善も悪も、仏も邪気も、天使も悪魔も、愛も憎悪も、みいんなまるごと受け入れることが前提となっているのです。

 

つまり、詩人は容易ならぬ「愛と苦悩の道」を選択せざるをえない宿命を背負っているとも言えます。

 

途方もない混沌と葛藤の中でも、なお「調和」を願い、苦悩し続けるのが詩人。

 

その「苦悩」の源泉にあるのが、人間は命あるものを殺して食べている、残酷な生き物であるという事実にほかなりません。

 

詩人は「魂と宇宙との調和」を目指す。その「調和」の中には、私たちが毎日、生きとし生けるものの生命を奪い、食べていることも含まれるわけですね。

 

例えば、私が親であり、幼い娘が金子みすゞだとしましょう。娘のみすゞに「ほんとに魚はかわいそう」と言われたら、親である私はどのように反応したら良いのか、どんな言葉をみすゞに返したら良いのか……。

 

想えば、簡単に返答できないこと、返答に窮することが、世の中には少なくありません。

 

詩人には「命の根本的な問い」を見つけて提示する役割が与えられています。が、その「問い」に、数学の解答のように「結論」を出すことは、詩人とて、無理ではないでしょうか。

 

小説にはエンターテイメントと純文学があるが、明確な答えを出すのがエンタメで、結論を言わないのが純文学だ、と私に教えてくれた作家がいました。

 

とてもとても、人生に結論なんか出せません。それが私の率直な気持ちです。

 

人生は当てのない旅である、といつも思っている私なので、結論を出すために生きようとは思いません。ただ、あるがままをそのままを、まるごと受け入れようとは思っています。

 

突然、愛する娘さんに、痛いところを突かれた時、あなたはどうしますか?

 

私はというと……金子みすゞに「ほんとに魚はかわいそう」と言われたら、苦笑して「そうだね」と応えるぐらいしかできそうにありません。

 

私は「お魚」「大漁」「鯨法会」の三篇を「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」と呼んでいます。

 

金子みすゞの詩は、風花まどか大学の教科書…

 

「風花まどか大学」の「まどか学」と「詩学」は、金子みすゞのポエジー(詩精神)が根底に息づいています。

 

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