金子みすゞの「大漁」という詩をご紹介します。
大漁(たいりょう)
朝焼小焼(あさやけこやけ)だ
大漁(たいりょう)だ。
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。
浜(はま)はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万(なんまん)の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう。
「大漁」は、金子みすゞの全作品の中で最も有名な詩の一つでしょう。
ただ、これまで、なぜか、この「大漁」という詩の感想文を書いていませんでした。
なぜか?
正直、それほど優れた詩だとも思わなかったし、たいして感銘を受けたわけでもなかったのです。なぜこの詩が有名なのだろうか、と首を傾げたくらいです。
で、今回読み返してみたら、ハッと気づかされたので、こうして書き始めています。
怖い。この詩「大漁」は、怖い詩だと思います。
イワシが大量にとれた、いわゆる「大漁」で、浜辺をお祭り騒ぎになっているけれども、その一方で、海中では、とられた大量のイワシをとむらっているだろうと、金子みすゞは、驚くほど大胆に書いています。
世の中は光と影でできている。光あるところには影がある。
しかし、金子みすゞのように、光と闇のコントラストを、何の前触れないしに言われてしまうと、のけぞってしまいます。
怖い詩、その恐怖はどこから来る?
イワシの大漁は、イワシの大量死を意味する。
こういうことって、なかなか詩にしにくいというか、詩にした人はいるんだろうか、といぶかしむ人もいるでしょう。
光と闇、真っ白と真っ黒の間には、無限のハーフトーン(灰色の段階)がありますが、金子みすゞは、おそらくは、人生のほどんどを構成しているであろう、中間色をバッサリ切り捨て、光と闇だけに峻別してしまったのです。
グレーの諧調という中間的念慮の中に、人は自分をごまかして偽りの安心を得ているのかもしれません。
しかし、金子みすゞは、偽りの安住を捨て、この世を光と闇に分けて凝縮してしまったのです。
イワシの大漁による祝祭⇒イワシの大量死による葬式
この詩「大漁」が怖いのは、死が怖いのではなく、大量死という闇を正視することが怖いのです。
金子みすゞの詩「明るいほうへ」でも、光と闇の鮮やか過ぎる対比が提示されています。
「明るいほうへ」を読んだ時、私は光のまぶしさよりも、闇の深さのほうにばかり気が行ってしまい、辛い気持ちになったのを、鮮明に憶えています。
この「大漁」においても、海中の暗さ、闇の濃さが気になってしかがたありません。
繰り返しますが、この「大漁」は「怖い詩」であって、無邪気に歌って楽しめる作品ではありません。
歌うのはやめましょう、と私は申し上げているのではなく、この「大漁」で提示された、深い闇、海水の冷たさについて、私たちはしばし、時計の針を止めるように、そのことだけを考えても良いのではないか、そんな気がしているだけなのです。
私は「お魚」「大漁」「鯨法会」の三篇を「金子みすゞの『命への愛おしみと哀しみ』三部作」と呼んでいます。
私はここで、金子みすゞの人生は不幸の連続で、闇に包まれ、夢も希望もなかったと言いたいのではありません。
金子みすゞの素晴らしいところは、どんなに辛くとも、ひたむきに光を求めて生きたこと、そして、私たとにとってかけがえのない「光」となる詩を数多く作ってくれたことです。
さらには、金子みすゞの詩集は日本人の文化史、精神史の上でも尊い「光」であり、そのことにも、感謝せずにはおれません。
この金子みすゞが私たちにもたらした「光」を、私たちは現在に、そして未来に生かしてゆくべきです。
私はこう書いたこともありました。
金子みすゞの詩は、ギフトである。
「夢売り」という金子みすゞの詩を読んだ時、金子みすゞの詩は「ギフト」だと、しみじみ感じ入ったのです。
「人に贈り物するのが天職だった人ですね、金子みすゞっていう人は」と、素直に思います。
金子みすゞの詩は、神様からの贈り物だとも言えるかもしれません。
感動するだけでは足りません。現在と今夜と明日のために、金子みすゞの詩の良さを語り継いでゆこうと思っています。
金子みすゞの詩は、風花まどか大学の教科書…
「風花まどか大学」の「まどか学」と「詩学」は、金子みすゞのポエジー(詩精神)が根底に息づいています。
なんかわかったかも。
なんかツラい
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