金子みすゞの「星とたんぽぽ」という詩をご紹介します。
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦(かわら)のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
※すがれる【尽れる・末枯れる】は「枯れる、衰える」の意。
金子みすゞの描いた世界は、絵本のように、きれいで、愛らしい。
この詩「星とたんぽぽ」の主題は単純だ。
「眼には見えないけれども、確かに存在するもの」、それこそが尊いと、これ以上は優しくできなくらいに優しく、そして可愛らしく、金子みすゞは伝えてくれている。
ストレートに言うなら「昼間の星」と「植物の根っ子」が大事だということ。しかし、このようにストレートに言ってしまえば、ただの教訓話に過ぎなくなってしまう。
ともすれば、お説教になってしまいかねないことを、金子みすゞは、絵本を開いてくれるように、色鮮やかに、やわらかく丸いタッチで(人生の真実を)描き出す。
空を海に、海の底の小石を星にたとえたり、たんぽぽの根を子供のかくれんぼみたいに「春がくるまでかくれてる」と表現したり、愛らしい「みすゞ節」が全開。
金子みすゞがくれるのは、人生の教訓ではなく、本物の優しさ。
この「星とたんぽぽ」にかぎらず、金子みすゞの詩を鑑賞する時、道徳話として受け止め、その道徳を他人に押し付けてはいけないと私は思っている。
金子みすゞの詩から人生の教訓を引き出すことは容易だが、金子みすゞ自身は、「これこれこういう時にはこうしなければいけませんよ」と断定したり、限定したりしてはいない、このことは注意すべきだ。
道徳教育として、金子みすゞは詩を書いてはいない。
人生にはギリギリの選択を迫られることがある。人生の岐路において、金子みすゞは、あなたに行くべき方向を指し示してはくれない。
決めるのは、あなた自身。結論を言ってくれないこと、それが金子みすゞの本物の優しさではないだろうか。
わたしとしては、金子みすゞの詩を読みながら、しばし、金魚のように可愛らしくふりながら、泳いでいたい、ただそれだけになりたい、と願うばかりである。