今回は、河井醉茗(かわいすいめい)の「ゆずり葉」という詩をご紹介します。
ゆずり葉
子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。
子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。
かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。
今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。
河井醉茗は、1874年(明治7年)5月7日 に生まれ、 1965年(昭和40年)1月17日に没。日本の詩人。
「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てました。また雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱。詩集に『無弦弓』『塔影』などがあります。
私は河井醉茗の詩集を手にしたことがありません。今回ご紹介した「ゆずり葉」も、題名だけ知っていた程度でした。
「ゆずり葉」を鑑賞してみて、教育者としての資質を持った人だということが伝わってきました。
大人たちは、子供たちのために「すべてを、ゆずる」と河井醉茗は言いますが、今年2020年に生きる大人の中で、河井醉茗のような思いを抱いて暮らしている者はどれだけいるでしょうか。
素晴らしいもの、美しいもの、かけがえのない大切なものを、子供たち(後世)に伝えてゆくという発想が、現代社会にはそもそもないように感じられて仕方がありません。
だから私は、微力ではありますが、河井醉茗の「ゆずり葉」という詩をはじめ、優れた詩を多くの人に伝承してゆきたいと心に決めています。
通りすがりですが、コメントさせていただきます。
「ゆずり葉」は、大好きな詩です。
幼稚園の卒園文集に載っていたことに、大人になってから気づきました。岐阜県の加納幼稚園という幼稚園です。先生方はこういう気持ちでおられたのだな、としみじみ感じます。
> そしたら子供たちよ。
> もう一度ゆずり葉の木の下に立って
> ゆずり葉を見るときが来るでしょう。
特にこの、最後の部分が好きです。
仰るように、ゆずり葉の木を見上げる人が、少なくなっているように思います。
伝えることもそうですし、きちんと譲ることもそうです。
無造作に落ちる葉の、その幸せな気持ちを味わう日を、楽しみに生きていこう、と私は思います。
本当にその通り、と思いました。私も引用された最後の3行に、光り輝くような素晴らしいメッセージを感じます。匿名さんの取りすがりコメント、岐阜県の加納幼稚園で匿名さんたちを見られた先生方、私の幼稚園時代の先生方もきっとそうだったのでしょう。有難いことと、及ばずながら、今日中にユーチューブに乗せたいと思います。 和久内明
堺市に住むものです。校区の小学校が新しくなり、名前の募集があり、ゆずり葉小学校と応募しました。しかし名前は、新湊小学校でした。教育委員会に文句云いたいです。初めから決まっていたような感じです。募集するなと言いたいです。
ゆずり葉は中学生のころ出会った作品で、50代後半になった今でもこころに残っていて、今まで何回か気持ちが立ち止まった時に体からゆずり葉の精神がふっと蘇り、そうだったなぁと心を落ち着かせてくれる作品です。作者のお名前は思い出せずにいたので、今回分かり、ありがとうございました。
☺ 全くおんなじです。
庭のゆずり葉が新しい芽と花を付けてきました。
ゆずり葉の詩を思い出しました。全部を思い出せなかったので検索しました。
有り難うございます。
先日、娘の結婚式で
新郎の両親が朗読してくれました
知っている詩でしたが
娘たち夫婦の門出にふさわしい詩だなって
感動しました
自分もまた詩の朗読したいなぁと
詩の力はすごいです
堺市中央図書館の前庭にこの詩の石碑があります。
「素晴らしいもの、美しいもの、大切なものを子供たちに伝えてゆくという発想が、現代社会にはそもそもないように感じられて仕方がありません。」とありますが、子育てをしている世代では、決してそんなことはないのでは?
特に私たちは高年になって子供を授かったせいかもしれませんが、できるだけ私たちのすべてを子供に譲って行きたい、と願っています。成功談、失敗談、読んだ本、暗証している漢詩や和歌など。家庭内で他人を批判せず、どんなことでも褒めて育てるのもその一環かと。それは子育て世代に共通ではないでしょうか?
最後の一節は、君が大人になって譲る立場になった時、彼女のすべてを「新しい葉」に譲る気持ちで、もう一度ゆずり葉を見るときが来るでしょう、という意味と理解しています。
ありがとうございます。これからも、そのようにお伝えください。もちろん、家庭教育だけでなく、教育の各分野で頑張ってくださっていることも存じ上げています。しかし、社会全体の傾向はそうなっていません。その歪みを正すことも大事だと私は考えておりますので、その点はご理解いただけたら幸いです。
友人が、おおきな書道展で賞をいただいたと聞いたので、見せてもらうとゆずり葉の詩だった。この詩しっていると、思い出した。小学生の時、書き初め展の硬筆の部で、書いた覚えがある。何十年も、忘れていた。確か、小学六年生の時だと思う。小学六年で、この詩を選んだ自分の感性を誉めてあげたいと、思った。その頃は、課題がなく、好きな詩を書いた。50年も前になる。自分が、どうやってこの詩に、出会ったのか、どこに惹かれて書いたのかはわすれてしまった。タイムマシンに乗ってその頃の自分に会いたいと思った。こうして、ゆずり葉を思い出させてくれた、友人に感謝した。