これまで「詩心革命」という言葉を使ってきましたが「革命」という言葉に抵抗があり、今一つ馴染めないので、今後は「詩心回帰(しごころかいき)」と呼ぶことにしました。
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詩心回帰という言葉の意味は?
「詩心回帰」という表現は、ベルグソンの「創造的進化」、ドストエフスキーの「永久調和」、ニーチェの「永劫回帰」に通じる、心(生命の根源)が極めて高い次元で満たされている創造的な状態を暗示。
まあ実は、それほど大げさに堅苦しく考えていただかなくても良くて(苦笑)、「詩心」に「回帰」すると、とっても良いことが起きる、いろんな方面でどんどんとプラスの連鎖が広がってゆく、ただそれだけのこと。
誰もが本来持っている「詩心」を取り戻し、「詩心」の良いところを存分に活用すれば、社会も日々の暮らしも豊かになる……だから何をするにも(政治・仕事・生活などすべておいて)「詩心」という永遠不滅のアプリを起動させた状態で行うようにしましょう、というのが「詩心回帰」の切なる訴えなのです。
ところで、私が政治や社会問題を「詩心」とつなげて語る、と申し上げたら、あなたは戸惑いますか?
なぜ、国民の半分が、選挙に行かないのか?
国民のおよそ半分は、選挙に行かないと現実があります。
選挙に行きましょう、と何度も呼びかけても、一向に投票率はあがりません。
では、どうしたら、投票率をあげられるのか?
多くの国民は、政治に対し、嫌悪感をとおりこして、恨み、憎しみさえ抱いている気がしてなりません。
政治なんかのために、1分1秒でも無駄にしたくないという思いが強く、心に分厚い壁を作っているのではないしょうか。
この「心の壁」を取り払わないかぎり、投票率は上がらないと私は考えています。
渇いた心が政治を受け付けない理由
いきなり、政治に関心を持ちましょうと呼びかけても、無理があります。
街頭で通行人に政治に関するチラシを渡そうとしても、振り向きもしないのは、無視しているというより、軽蔑していると言った方が当たっているのかもしれません。
多くの人たちは政治に対し、警戒心を抱いています。
街頭演説する政治家に対し、多くの人は「口先でうまいことを言ってるけど、実は利権を得たいだけなのではないか、議員になって適応に仕事もせずに税金でのうのうと暮らしたいだけではないか」と感じている。
その一方で、多くの人は、政治への無関心をよそおっていても、実は、今の政治はかなり劣化している、危機的状況にあることに気づているのです。
だからといって、悪い政治を直しましょう、と呼びかけても、無視されるのがおち。
では、どうしたら良いのか。
まずは、多くの人たちが「なぜ、政治を拒否しているのか」ということを知らねばなりません。
現代人は心がカラカラに渇いている、そんな状況で政治に関わったら、余計に心が渇いていてしまうと警戒心を抱いているのではないでしょうか。
なぜ、心が渇くのか?
一般社会には愛が薄いと感じているけれど、政治の世界は一般社会以上に愛が薄いばかりか、強欲と悪意の坩堝(るつぼ)ではないかと思っている。
一般社会でも息苦しいのに、それ以上に邪悪な政治に関わったら、心がさらに渇くのは目に見えている。
だから「政治なんて、とんでもない」と警戒している。
以上の理由から、政治から距離をとっている人たちが多いと私は分析しています。
しかし、しかし、です。
これまでの先入観がぶっとぶ、サプライズ事件が起きたら?
そうした多くの人が抱いている、政治への先入観と真逆の事件(現象)が起きたらどうか。
もしも、万が一、眼の前に愛のある人間が現れたとしたら? しかも、その人物がよりによって、政治家だったとしたら?
と考えれば、「心の問題」という絡んだ糸は、ほぐれやすくなると思うのです。
例えば、純粋な無私の精神を持ち、国民のために専心している政治家が現れ、真剣に対話しようと呼びかけてきたらどうか。
しかも、その政治家は、政党を飛び出し、一人きりで新しい政党の旗を上げるという、捨身の覚悟を示しているとしたら?
選挙の時だけ、清き一票を、と笑顔をふりまく政治家とは全く違う、真剣そのものの政治家が目の前に出現したら、足を止めざるをえないでしょう。
そして、固く閉まった心の扉も、少しは隙間ができるかもしれない。
さらには、その政治家が「私を応援してください」ではなく、「こんなひどい政治を許したのは、私自身だ」と言いきったらどうか?
「政治が悪いより以前に、自分の政治への無関心が、こんな悪政をはびこらせ、こんなにひどい世の中をつくってしまった。私は、こんな地獄のような世の中を作った側の人間だ」と涙を流して告白したら?
それでも、顔をそむける人は多いかもしれない。でも、一人ずつ、少しずつ、心を開く人が増えてゆくことは、容易に想像できますよね。
ですから、警戒から、硬直した心をほぐすには、まずは、呼びかける側が、私利私欲(功利主義)を捨てること、それが大前提となることがわかります。
利害(損得勘定)を捨てて声かけしないと、相手は反応さえしてくれません。
呼びかけ人に、自分への利益誘導という邪念があれば、人々は政治に対し、心をさらに固く閉ざしてしまうに違いありません。
なぜなら、私利私欲だけで動いている政治家という「愛のない、愛の足りない人間」と接したら、心が渇くので、関わりたくないと常日頃から思っているから。
有権者の中にある「心の壁」を取り払われ、逆に政治や政治家に感謝するようになるには、私利私欲を超えた「大きな愛」を政治家が抱き、その愛によって、愛ある政治を行い、愛にあふれた社会を創造するしかないのです。
政治が健全に機能し、愛があふれる社会を作り上げるために必要なこと、知らねばならないこと、やらねばならないことについて以下、述べてみることにします。
政治の問題は、心の問題でもある理由
心の壁が取り払われるのは、以下のような時に限られるのではないでしょうか。
政治は自分と無関係な遠いところで行われているのではなく、無関心でいたら、どんどん壊れてゆく……そういう危険な状態をつくったのは自分自身であり、自分が何とかしないかぎり、政治も社会も良くならない。
本人自ら、以上のように気づいた時、心の壁を消え去る、と私は信じています。
もちろん、「心の壁」が取り払われたら、もうだいじょうぶ、というわけではありません。
そこは、スタート地点にすぎません。
政治問題をすべて自分のことととらえ、政治を学びはじめなければいけない。
しかも政治に関わることを、政局、政策、政党、憲法、法律など、幅広く学ぶ必要がある。
一般人である私たちが、ある程度の年齢になってから、政治に関することを学び始めるのは大変ですよね。
でも、学び方を工夫すれば、賢い学習法を知れば、だいじょうぶ。私が最近の5年間で学んできた体験(失敗も含む)から、できるだけ効率の良い学習スタイルをご提案できます。
政治を学ぶべきだと申しましたが、ただ学ぶだけでは駄目なのです。それでは、テレビやYouTubeなどに出ている、商魂たくましいコメンテイターたちに追従するだけになってしまう。
多くの人が気づいていないのは、政治や社会の問題を、心の問題としても、とらえなければならない、ということ。
なぜなら、人の生活は、政治、社会、眼に見える物体、システムなどの「外なる世界」と、心、精神、魂、歴史、伝統、文化など「内なる世界」の両面で成立しているから。
どちらか一方だけでは、生活は成立しないのです。
だから、政治は「心」とつなげて考え、語られなければなりません。
と同時に、私たちは「外なる世界」である政治を無縁の存在ではないので、自分たちの「内なる世界」の幸せを望むならば、政治を学ばなければいけないのです。
いかがでしょうか?
政治は「心」と無関係ではないことは、ご理解いただけたかと思います。
なぜ、現代社会は、生きづらいのか、息苦しいのか?
「生きづらい」「息苦しい」という言葉をよく聞きますよね。
その感じは、確かに私にもありますし、多くの人たち同様の実感を持っていると思います。
では、どうして、現代社会は生きづらいのか?
デフレが続き、経済的にゆとりがないからでしょうか。
「生きづらさ」の原因は、経済的な問題だけではない、というのが私の考えです。
それこそが「心の問題」であると私は確信しています。
人というものは、少々貧しくても、心豊かに暮らせるものです。
ここでも私は「生きづらさ」の原因になっている「心の問題」は、「政治の問題」だと捉えています。
政治の重要な役割の一つに「幸福な社会の構築」があります。
しかし、今の政治は、いえ、これまでの政治は、人々に「幸せになるな」と強制してきたようなものです。
幸福の基準は人それぞれ様々でしょう。ただ、幸福感の中に必ず含まれる要素があります。
それは「愛情」「愛着」「慈愛」など、「愛」を感じることです。
そうであるにも関わらず、政治は、人々から「愛」を奪い続けています。
例えば、一日の生活を振り返ればわかります。
今日入ったお店で、店主に愛情が感じられた、あるいは、自分が愛着がわいてくるのを覚えた見せがあったかどうか?
今日歩いた道で、今日見た風景で、思わず愛してしまうような、心地よい、美しい、癒される場所や空間や光景はあったか。
そういう毎日、眼に入る、肌で感じるものこそが、人々の暮らしの「幸福指数」に大きく影響するのです。
それなのに、社会全体が効率や便利のみを追い求めすぎ、愛着を覚えるもの消すだけで保存したり、新たに作ろうとしていない。
これこそが、政治の大きな間違いだと思うのですが、いかがでしょうか。
効率や便利さではなく、愛と幸福へ
人々から「愛情」を抱けるもの、「愛着」がわくものを生活圏から消すことは、人々に「幸せになるな」と命令しているようなもの。
その一方で、国や企業は少しでもお金をつかわす(巻き上げる)ことだけには必死になっている。
超大型のショッピングセンター、そこに買い物に行くだけにつかうかのような自動車、設計に何の愛情もない空間だけの切り売りのような住宅など、いくらあっても、人は幸せはなれません。
普通に生活していて、見えるものに「愛」がないから、特定のお店などの有料サービスを受けるか、自宅(あるいは家庭)に逃げ帰ることしかできない社会が「生きやすい」はずがないのです。
「愛」をパブリックな場で得られない(日常生活では得られない)から、「お金さえあれば幸福になれる」という勘違いに走ってしまう。お金で買ったもの、サービスなど受けても幸福感は薄いのです。なぜなら、そこに「愛」がないから。
一日の生活の中で、「愛」が感じられるものがいくつ(どれくらい)あるか、それが人々の幸福感を形成してゆくのです。
街路樹のある安全で美しい道、どぎつい広告看板のない見ているだけで心が和む街並み、そこにいると貴重な癒しの時間に浸れる憩いの空間などが、今の社会にはほとんどないことにきづきます。
また、そういうものを作るのが政治の仕事であり、今ほど「政治に愛(心)が必要な時代はない」とさえ私は思っているのです。
おさらいしますと、人は愛が感じられれば大きな富がなくても幸福になれ、愛がなければいくらお金があっても幸福になれない、生き物であるということ。
だから、政治は、人に愛を感じさせる社会を作ることを目指さないといけないのです。
それと、もう一つ、効率(スピードアップや時短)ばかりを追求する社会が認知症の人を増やしているという説があります。
ゆっくりでもいいから、頭を使う楽しみが味わえる、日常からいろんな人を会話ができる環境(コミュニティ)づくりも政治の大事な仕事でしょう。
近所づきあいを含めた地域のコミュニティが壊され、和みと笑いのある場がないことも、「生きづらさ」「息苦しさ」を生む原因になっていると思います。
愛を感じる場所がないから、狭い自宅に避難しかないとしたら、人も社会も渇き、干からびてゆくに違いありません。
次に「心」と「詩」が合体した、「詩心」についてご説明しましょう。
詩心回帰とは、何か?
ここで、私独自の主張である「詩心回帰(しごころかいき)」という言葉が登場します。
「詩心回帰」という見慣れない言葉を提示されても、??っていう感じですよね。
ご心配無用。案外、簡単なことですから(笑)。
まずは、詩人とは詩を書く人だけを指すのではなく、詩心を持っている人はすべて詩人であることを知ってください。
そして、詩心は私たちすべてが本来、持ってるのです。ただ、それを、現実を生きぬくことでギリギリであるために、普段は忘れているだけのこと。
ですから、人はみな、もともと詩人なのです。
とにかく、詩心はたいへん貴重なもの、素晴らしい能力でもあって、さまざまな魔法とも呼ぶべき能力を持っていることを、ぜひ知っていただきたい。
詩心の5つの素晴らしい点は、以下のとおり。
詩心の5つのメリット
メリット1)生きとし生けるものへの愛情。
メリット2)美を感じる(もののあはれを知る)能力。
メリット3)いかなるものにも縛られない自由な心。
メリット4)物事の本質をとらえる直観力。
メリット5)豊かな想像力を活かして未来を予見する。
どうでしょうか、これほど素晴らしい要素を「詩心」は持っているのです。
この世のすべての人が、詩心を取り戻し、詩人になれば、今よりも、もっともっと良い社会になることは間違いありません。
すべての人が詩心を取り戻し(詩人に回帰し)、より良い社会を創造しましょうという運動を「詩心革命」と呼ぶのです。
ここで一点、注意していただきたいことがあります。
私は詩の名作を読むことを推奨しますが、決して、すべての人に詩を書きましょうと訴えているわけではありません。
むしろ、詩を書くよりも、「詩心」の素晴らしい特性を活用して、良いことをいっぱい起こしてゆきましょうと呼びかけているのです。
詩を読むことで、「詩心」を想い出すこと、取り戻すことができるので、まずは詩作よりも、名作詩の鑑賞から始めてください。
詩心は2つの目的のために使うべき
「詩心」は素晴らしい能力を持っていて、それは魔法のようなものだと私は言いました。
ただ、「詩心」の使い方を間違えると、たいへんなことになりかねません。
ですから、良いことだけでなく、「詩心」の短所も知っておきましょう。
「詩心」の3つのデメリット
デメリット1)あまりにも事象の本質が見えすぎる。
デメリット2)一般生活を送るのに障害になるほど繊細である。
デメリット3)何者にもとらわれない自由な精神を持っているために、組織に適応するのが苦手である。
せっかく「詩心」を回復できても、これらのデメリットにより、自家中毒を起こしては元も子もないのです。
「詩心」は以下の2つの目的のために活用するべきです。
目的1)忘れかけていた大切なものを取り戻すために「詩心」を使う。
私は誤解を恐れずに「私は政治を自分が幸せになるために語っている」と断言します。
大事なのは「自分だけが幸せになりたい」というのではないこと。
「自分も、そして他の多くの人も、いっしょに幸せになりましょう」という切なる願いを抱くことが大切だと私は思っています。
「詩心」も、人を豊かにし、幸せにするためにあるのです。
なぜか?
例えば、「どこか遠い街の駅の待合室に、とっても大事なものを忘れてきてしまった気がしている。それが何であるかを、詩を読むことで気づいた」ということはよくあるのです。
極めて大切のもの、自分が生きている証しと言いたいような、本当の自分がかつては胸に抱いていたものを、ふとしたきっかけで、取り戻せることはあります。
実は、それも「詩心」の効用のひとつです。
忙しく、仕事や生活に追われまくって、自分に帰る時間さえなかった、そいういう人は多いのではないでしょうか。
「詩心」を想い出せば、だいじょうぶですよ。
本当の自分に帰ることも可能ですし、空に流れる雲の動きに幼い頃の記憶を手繰り寄せることもできます。
そう、「詩心」は「夕焼けがきれいだな」とか「優しい雨音に酔いしれる」とか、当たり前の豊かさを、私たちに贈ってくれるのです。
だから、豊かに、幸せになれるのは、当然でしょう。
目的2)美しいもの、豊かなものを、新たに創造するために「詩心」を使う。
「詩心」をポジティブに創造的に活用するよう、心掛けるべきです。
人は良いものを作り出す時、無意識のうちに「詩心」を活かしています。
美しい建造物を見た時、この建物はまるで詩のようだ、と形容したくなったことはありませんか。
その建物を作った人は、詩人だったのであり、詩心を存分に発揮したとも言えます。
私は日本および日本人に決定的に欠けているのが、あるいは諦めているのが、美しい景観に対する意識です。
建物や道路、街路樹、背景となる風景が美しければ、ベンチに腰を下ろして、じっとその景観を楽しむことでしょう。
しかし、看板だらけの街並み、街路樹も歩道さえもない、狭い道路が、もう当たり前のものだとして、日本人は諦めているかに見えます。
国宝の建造物を継承することは大事ですが、私たちがふつうに生活している街の風景を美しくする、そうしたい、という意識を持たないということは、自ら「詩」と「詩心」を放棄しているようなものです。
なぜなら、「詩心」は美と平和と安寧を愛するからです。
もちろん、建築だけでなく、料理、陶器、文具、家電など、なぜ、もっとシンプルで美しくならないのか、と感じませんか。
美は、化粧やファッションだけにあるのではない。
歩いていて心が和らぐ小径、清流が静かにながれる街並み、そこにたたずむだけで癒される大きな樹木のある公園など、「詩心」を発揮すれば、いくらでも素晴らしい空間を生み出せるはずです。
また、保育園や老人ホームなどの施設も、機能性だけでなく、デザイン性にも配慮してほしい。
いかがでしょうか。
このように「詩心」を創造的に活用すれば、社会はもっと潤いあるものになり、私たちの暮らしも豊かになるのです。
詩心がお金偏重の価値観を変え、日本人の心の復興が始まる。
大東亜戦争に敗戦してから、日本人の精神はズタズタになり、その傷跡は今もなお癒えていません。
私が唱える「詩心革命」の目的の一つに、日本人の心の復興があります。それを「心のふるさと」を見つけることと呼んでも差し支えありません。
日本人の精神の土台が揺らいでいるため、自信や誇りが失われ、何をしても、心底から歓びを感じることができないのです。
そのため、まずは近代日本人の心の根っ子を見つめなおすことが重要だ私は思っています。
近代日本人の心の原点が最も純粋に表れているのが、日本近代詩にほからないというのが私の意見です。日本近代詩は、世界的にも稀な高い水準の成果であり、日本人として誇りにしなければいけない宝物であることさえ、多くの人は気づいていません。
お金を最優先する、歪み偏った価値観から、自由と美と慈愛を尊ぶ価値観への転換が今こそ求められています。
その価値観の大転換の鍵を握っているのが、実は「詩心」なのです。
政治・経済の分野においてこそ「詩心」が欠かせない時代に突入。
私は今、日本人が本当の意味で「心のふるさと」を回復するには、歴史だけでなく、政治や経済も学ばなければいけないと痛感しています。
政治や経済をイデオロギーだけで判断すると、道を誤る危険性が極めて高い。
やはり、歴史を含めて、物事の本質を見抜き、正しい未来を拓くためには、「詩心」は不可欠であると思うのです。
迷った時こそ、日本人の特性である「詩心」を軸として判断すべきではないでしょうか。
大きな方向転換が求められる時、「詩心」が必要であり、また「詩心」を十全にはたらかせた時、「日本人の心のふるさと」が見つけられる気がしているのです。
「詩心」を取り戻すためのキーワードは「ときめき」
「詩心革命」といっても、何か特別なことをする必要はありません。また、難しいことも学ばなくて結構です。
ただ、素直に、ときめく、それだけです。
名作詩を読んで、いいな、と感じること、それはとても贅沢な体験なのです。
なぜなら、感じることが詩の基本であり、感じさえすれば、その時点で、これまであなたの邪魔をしていた、無意識にまとってた、鎧兜を脱ぎ捨てることに成功しているから。
そう、詩にときめくとは、余計なものを捨てることでもあるのです。
重いコートを過ぎ捨ていると、とても楽な気分になりますよね。
詩に感動するとは、心の中にある、老廃物やオリモノを洗い流すことでもあります。だから、詩を読んで心動かされた後は、すっきりとした解放感を味わえるのです。
もう、おわかりですね。
「詩心革命」は、生活の一部に「詩」を加えることに他なりません。
「詩」といっしょになっている時間は、じんわりと芯から温まることができます。
とっても身近で、とっても贅沢な楽しみ、それが「詩」なのです。
ですから、肩の力をぬいて、理屈ぬきに、ときめきましょう。そうすれば、いつからか知らぬ間に忘れてしまっていた「詩心」を、簡単に思い出し、取り戻せますよ。
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