谷川雁(たにがわがん)という詩人をご存知でしょうか。私の場合、名前は知っているけれども、作品はほとんど読んだことがありませんでした。

 

ところが、数年前、ふとしたことから、谷川雁の「東京へゆくな」というを知り、愕然としたのです。

 

さっそく、谷川雁の「東京へゆくな」を引用してみましょう。

 

東京へゆくな

 

ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

 

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

 

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

 

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

 

おれたちのしりをひやす苔の客間に
船乗り 百姓 旋盤工 抗夫をまねけ
かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

 

駈けてゆくひずめの内側なのだ

 

現代詩を読み慣れていない人は、この詩を読むと「めまい」を覚えるかもしれません。

 

全体の意味が非常にとりにくい。また、日常では続けては使わない相反する言葉をあえてつながて使用しているため、ハレーションが起きている。

 

そういうことは、谷川雁が意図的にやっていることであって、この詩こそ、細部の意味を詮索することなく、最初から最後まで流れるように読むべきです、と申し上げたい。

 

一つひとつの言葉に拘泥すると、全体の意味がまったくわからなくなってしまいます。

 

ですから、流れにまかせて読み進むと、この一見難解そうな詩が、あっけないほど簡単にその正体を明かすことの驚くことでしょう。

 

この詩は六つの連で構成されています。

 

一連目は、「水仙いろした泥の都」「やさしく奇怪な」など、相反する言葉を隣接させることで、日常的な言葉の流れを分断し、素直な理解というパズルを破壊してしまします。

 

ですから、わかりにくいのは当然です。

 

ただ、読み進むにつれて、意味がとりやすくなってくる。

 

そして、以下の第四連目で、突如として、ストレートな物言いに転調する。

 

 

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

 

 

上の連こそ、この詩の価値を永遠たらしめた二行であることは、間違いないでしょう。

 

そして、また次の連から言葉の幻惑が復活し、ラストの意味深な一行へと続きます。

 

この「東京へゆくな」という詩は、途中で立ち止まって言葉の意味を詮索すると、迷路に入ってしまうでしょう。

 

もちろん、そうと知りながらも、考え込んでしまうわけですが、もう一度、この詩を最初から最後まで読んでみると、あることに気づくはずです。

 

この「東京へゆくな」という詩は、暗喩に次ぐ暗喩で構成されているわけですが、その暗喩が苛烈ともいえる激しい情念によって駆使されている、その強い波動を感じ取れば、決してわかりいくい詩ではない、と思いい当たるに違いありません。

 

言葉のハレーションは、言葉の火花です。命の葛藤です。

 

「東京へゆくな」と激しさは、谷川雁の精神の火花に他なりません。

 

相反するものによって引き裂かれた存在である自己と向き合う時、人は何をすべきなのか。

 

火花を散らしながら、自己の存在を感じているしかない。牧歌的な安寧は、逃避でしかない。

 

矛盾と相克に苦しみながらも、ふるさとに帰るのではなく、「ふるさとを創れ」と叫び、魂の火花を散らしているしかない。

 

そんなふうに、谷川雁は自己と向き合っていたのだと思えてなりません。

 

苛烈な暗喩の連続、言葉の幻惑によって表出された、生命への根源を求める魂の激白、それが「東京へゆくな」という詩の正体だと私は感じているのですが、いかがでしょうか。