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美しい言葉辞典

赤い椿白い椿と落ちにけり(河東碧梧桐)の解釈。

俳句も好きで若い頃からよく読みました。おかげで、過去に知った俳句が、ふと口をついて出てくることがあります。

俳句は短歌よりも文字数が少ないこともあり、初めて読む俳句は意味が正確にはとれない場合が多い、という難点もあるのですね。

今回は、河東碧梧桐(かわしがしへきごとう)の名句「赤い椿白い椿と落ちにけり」を取り上げることにします。

⇒「赤い椿白い椿と落ちにけり」については、音声でも語りましたので、ぜひYouTubeでお聴きください。

最近、日本の教科書問題が浮上することが多いですよね。歴史に関する記述が事実と異なってり、「歪んだ教育」が取り沙汰されます。

しかし、あくまで私個人の意見ですが、文学に関する教育は良かったのではないかと感じています。

というのは、国語や現国で取り上げられている作品が実に良かったからです。

文学作品のセレクションは、大したものだと思います。

教科書に載っている作品は、ほとんどが素晴らしいのです。

今でも折に触れて思い出す俳句は、多くの場合、教科書に載っていた俳句だったりします。

今日ご紹介する河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」も、教科書で学んだ俳句です。

河東碧梧桐は1873年(明治6年)に生まれ、 1937年(昭和12年)に死去した日本の俳人。

正岡子規の弟子で、高浜虚子とともに「子規門下の双璧」と称されました。

子規は、碧梧桐と虚子について「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評したと伝えられています。

で、「赤い椿白い椿と落ちにけり」の句意ですが、あなたはどのように感じ取りましたか?

実は、この句の解釈は専門家の中でもいろんな意見に分かれているのです。

多数の解釈は大別すると、2つのグループに分かれています。

1)すでに地面に落ちてしまっている椿を見て読んだ句である。

2)赤い椿が落ち、次に白い椿が落ちる、その動きを読んだ句である。

つまり、静止画として読むか、動画として読むかの違いでしょうね。

では、静止画と解釈した意見の代表として高浜虚子の解釈をご紹介しておきます。

高浜虚子の解釈

「其処に二本の椿の樹がある、一は白椿、一は赤椿といふやうな場合に、その木の下を見ると、一本の木の下には白い椿ばかりが落ちてをり、一本の木の下には赤い椿ばかりが落ちてをる、それが地上にいかにも明白な色彩を画してはつきりと目に映る、いふことを詠つたものであります」

次に動画として読んだ説の代表として、栗田靖の解釈を引用しておきます。

栗田靖の解釈

「赤い椿の花が、と思った瞬間、白い椿がぽとりと落ちた。見ると、一本の木の下には赤い椿ばかりが、また一本の木の下には白い椿が落ちているとの意」

さらには、折衷説とでもいうべき、大岡信の解釈も加えておきましょう。

大岡信の解釈

「語法的には、赤い椿、ついで白い椿が落ちるさまと読めるし、また面白いが、作者自身は、紅白二本の椿の下に散っている赤い花の一群と白い花の一群という、ふたつの色塊の違いに感興を得たらしい」

あなたは、どちらの説に共感しましたか?

河東碧梧桐に近い正岡子規と高浜虚子が、ともに静止画と評価していること、また本人も落ちた椿の赤い花の一群と白い花の一群に感興を得たと言っているとのことなので、静止画の方が事実なのだと思います。

しかし、芸術作品はすべてそうですが、作者の手を離れた直後から、自立するものなので、鑑賞する側は自由に解釈しても良いので、事実にこだわる必要はないでしょう。

その立場に立ち、自由に解釈するとしたら、もう一つ、以下の説が考えられます。

実際には河東碧梧桐は発句する時には、落ちてしまっている椿も、今まさに落ちている椿も見ていなかった。すべてフィクション。または夢の中に現れたイメージに、強く心を動かされたので、それを俳句として構築したのではないか。

以上のように解釈しても、十分に感動できる俳句だと思います。

で、私はどのように読み、どのように感動したのかについて、以下で述べてみます。

私は、赤い椿が落ち、続いて白い椿が落ちたという動画として読みました。

昔私が住んでいた町には神社があり、その周辺が野鳥保護区域に指定されているくらい森が大きく広がっていたのです。

その森の一角に椿の大きな木が群生していて、椿の花が散る様は、リアルに見てきました。

確かに地面に散った椿の花も印象的なのですが、やはり、枝を離れ、落ちる時の動きにこそ、ハッとするほどの魅力がある、というのが私の実感です。

それによくよく考えてみると、たくさんの赤い椿と白い椿が地面に散っているという様子をあらわそうとして発句されたとしたら、この「赤い椿と白い椿と落ちにけり」では、表現に無理があると思うようになりました。

映画の「椿三十郎」に出てくるような大量の椿の花を連想することは、「赤い椿と白い椿と落ちにけり」では、正直できにくいのです。

それよりも、赤い椿が落ちるという動作に驚き、続けて、白い椿が落ちる動きにさらに驚く、という極めて限定されたフレームの動画として見ることの方が、素直な鑑賞の仕方だと思われてなりません。

これは後で、知ったのですが、この「赤い椿と白い椿と落ちにけり」を書いたのは、河東碧梧桐が24歳(明治29年)の時だそうです。

この年齢を知って、ドキッとしました。

私も24歳の頃は、一心に詩作しており、貧しいながらも最も充実した毎日を送っていたのです。

ただ、感性も冴えわたっており、それが極限に達すると、ふと死を想起することがありました。

「赤い椿と白い椿と落ちにけり」は、色彩が鮮やかになわけですが、鮮やかに過ぎるのです。

首ごとポタっと落ちる椿の花の散り方は、鮮やかであり、潔い。そして潔すぎるがゆえに、残酷なほど美しい。

25歳前後の生命の絶頂期にあったら、椿の花の潔く鮮やかに散る様を見たら、死を想わない人はいないのではないでしょうか。

生き急ぎ、死に急ぐのが、青春期の特権かもしれません。まるで、椿の花のように。

美しい花を咲かせてた椿、そして間もなく、ポタっと地に落ちる椿の鮮やかな花に、生命の絶頂と死を感じ取った詩作品として、私はこれからも「赤い椿白い椿と落ちにけり」を愛し続けたいと思っています。

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