まど・みちおの「せんねん まんねん」という詩をご紹介します。
せんねん まんねん
いつかのっぽのヤシの木になるために
そのヤシのみが地べたに落ちる
その地ひびきでミミズがとびだす
そのミミズをヘビがのむ
そのヘビをワニがのむ
そのワニを川がのむ
その川の岸ののっぽのヤシの木の中を
昇っていくのは
今まで土の中でうたっていた清水
その清水は昇って昇って昇りつめて
ヤシのみの中で眠る
その眠りが夢でいっぱいになると
いつかのっぽのヤシの木になるために
そのヤシのみが地べたに落ちる
その地ひびきでミミズがとびだす
そのミミズをヘビがのむ
そのヘビをワニがのむ
そのワニを川がのむ
その川の岸に
まだ人がやって来なかったころの
はるなつあきふゆ はるなつあきふゆの
ながいみじかい せんねんまんねん
「時は過ぎ去るのではなく、巡るものである」という言葉があります。
人生においても、誕生から死まで、時間は一直線に流れているのではなく、まあるい円を描くように巡っていると思うと、いくらか気持ちが軽くなる気がするのです。
私はまだ死んでいませんし、生まれ変わってきてもいませんので、輪廻転生ということが実際に起こりうるのかはわかりません。
ただ、時を経るにしたがって、時は巡っていると感じるようにはなってきています。
まど・みちおの詩「せんねん まんねん」は、時が円を描くように回っているだけでなく、この世界の出来事も、循環していて、同じことが繰り返されていることを伝えています。
いろんなことがつながっているのが、この世界であり、人生です。人間は文明社会を進化させる過程で、さまざまなものを、分断し、バラバラにし、壊しすぎたのではないでしょうか。
もともとは、この世界にあるものはみんなつながっていて、いろんなことがつながりつつ起きて、分断されてもいないし、バラバラでも本来はありません。すべてはつながっている、つながりつつ姿を変えつつ、同じことを繰り返すのが、世の中であり、人生である……そういうことを、まど・みちおは、概念語一つ使うことなく、語っていることに注目しましょう。
私はかつて「水の旅」という文章を書いたことがありました。
水もまた円を描くように循環している。
雨が森に降り注ぐと、森に蓄えられ、やがてその水は源流となり、川となって海に向かって流れてゆきます。海にたどり着いた水は、蒸発して雲となり、雲は雨を地上に降らせ、地上に降り注いだ水は、川となり、海へと流れてゆく……。
こうした水の循環運動のことを「水の旅」と呼ぶのですね。
では、人生はどうか?
誕生した生命は、森から湧き出る清水のようなものか。湧き水は源流となり、川に流れ込んでゆく。川は海にたどり着いても、終わりではなく、蒸発して空に舞い上がる。
私は数年前に、「地上生」と「天上生」という言葉を、拙著「風花円満」で使いました。
人の一生も、死で終わりではなく、死後、人は昇天し、天上の生を生きる。そして、また地に舞い降り、降誕して地上生を生きる……。
つまり、人も生と死を繰り返すという循環運動をしている、というふうな仮説を私は語ったのです。
まだ私は死んでいませんし、昇天もしたことがないし、転生したこともありません。
しかし、そういうことは大いにあり得ると、ごく自然に思えるのです。
時間と空間の感覚を押し殺して、暦と時計に依存していては、人生はつまらない。
時間とか、空間は、物理的に処理すべきものでは本来ない。社会や生活を機能的に運営するために、カレンダーや時計はあるが、それはあくまで便宜的なものにすぎません。私たちの「時空感覚」という感覚によって、時間と空間は、自在に創造できるのです。
もっと自由に、時空を自在に行き来して、人生を豊かに味わい、楽しんだ方いいでしょう。
楽しむと今申しましたが、言い換えれば、人生の苦悩は、時空感覚を正常に動かせば、かなり軽減される、即ち、楽しくなる、となります。
それにしても、まど・みちおの「時空感覚」は、実に自由自在ですね。