中原中也の「少女と雨」というをご紹介します。

 

少女と雨

 

少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは

其処(そこ)は花畑があって菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

 

菖蒲の花は雨に打たれて

音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはいませんでした

 

しとしとと雨はあとからあとから降って

花も葉も畑の土ももう諦めきっています

 

その有様をジッと見てると

なんとも不思議な気がして来ます

 

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしずかな回転をはじめ

 

花畑を除く一切のものは

みんなとっくに終ってしまった 夢のような気がしてきます

 

この「少女と雨」を読んで、中原中也の最高傑作と呼ばれる「一つのメルヘン」を、すぐに想起した。

 

「一つのメルヘン」のレビュー記事はこちら

 

「一つのメルヘン」も「少女と雨」も、両方とも、優れた幻想詩だ。

 

幻想の内容そのものが美しいだけでなく、詩として形式的にも美しいのである。

 

しかし、なぜか、形式的な均衡から、中原中也の魂の危機、崩壊の兆し、死の予感を感じ取ってしまう。

 

異様なほど、形式的に、整っている。不吉なほど、修辞学が完璧だ。

 

中原中也は演出で、こうした幻想を詩にしているわけではない。実際に、詩に書かれた幻想を見たのである、と強く直観せざるを得ない。

 

それくらい、ギリギリの緊張感(危うく美しい均衡)が、「少女と雨」と「一つのメルヘン」にはある。

 

もうすぐ、壊れてしまう、もろくも気ずれ落ちてしまう、その直前の凛とした鮮明な映像を、中原中也は定着する。

 

詩作という名の創作活動が、自分の魂を救い、命の充溢をもたらすことと、中原中也はもう信じてはいない。

 

安寧も、癒しも、求めようとは思わない。

 

ここでは中也は、見えたものをそのまま紙に写しとることだけに専心している。まるで、運命に従順であろうとした修道僧にように。

 

あるいは、純真無垢な少女のように

 

詩を書くことが生きることだった中原中也。詩作と生活があまりにも密着しすぎていた天性の詩人が到達した境地が、幻想詩だったとは。

 

これ以上の不幸も、これ以上の幸福もない、なぜか、そんな気がする。

 

「花」「少女」「雨」「オルガンの音」「校舎」「山」などの小道具(舞台装置)を使って、美しい幻想を紡ぎ出すことに成功した。

 

もう、分析はやめよう。

 

「少女と雨」は、中原中也という詩人の到達点を、憔悴した手つきで、死の不気味さ、不吉な予兆を漂わせつつ、しめやかな安らぎの世界を、幻想詩として描き切ってくれたのだから、それだけで充分なのである。

 

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