ジャン・コクトーの「」というをご紹介します。訳詩は堀口大学

 

【動画】(詩の朗読と鑑賞)ジャン・コクトー「耳」と小学一年生の詩

 

 

私の耳は貝の殻(から)

海の響(ひびき)をなつかしむ

 

このジャン・コクトーの詩「耳」を読んだ時、すぐさま一篇の詩が想い浮かびました。

 

貝殻を耳にあてると

海の音が聞こえる

貝は長く海にいたから

海の音がしみ込んだのかな

海は貝に命をやったんやな

 

ところが、この詩の題名と作者の名が思い出せません。ただ、この詩を中山靖雄先生が講演で紹介されたことだけは、ハッキリと憶えています。

 

おそらくは、小学生か中学生が書いた詩だったと思うのです。「かな」「やな」という言い回しから、ひょっとすると、山元加津子さんの教え子である原田大助くんの詩かと思ったのですが、原田大助くんの詩の中には、この詩はありませんでした。

 

原田大助くんの詩はこちらに

 

YouTubeで中山靖雄先生の動画で確認すると、小学一年生の詩であるということだけはわかりました。

 

中山靖雄先生の短歌

 

立派ですね。小学一年生の書いた「海は貝に命をやったんやな」で終わる詩は、ジャン・コクトーの詩よりも優れていると私は直観しました。

 

なぜなら、「海は貝に命をやったんやな」で結ばれているからです。

 

素晴らしいというより、立派だと言いたい。よくぞ、小学一年生でありながら「海は貝に命をやったんやな」と書けたものです。

 

では、ジャン・コクトーの詩に戻りましょう。もう一度、引用してみますね。

私の耳は貝の殻(から)

海の響(ひびき)をなつかしむ

 

あ、これは、うまい。洗練され、詩として高い完成度を示しています。

 

この二つの詩には共通点があります。それは「ゆたか」なこと。なぜ「ゆたか」なのかというと、人の「想像力」を喚起するからです。

 

一つの「貝殻」から、大きな海と、その波の音だけでなく、大きな愛までを感じとれるのも、人の持つ想像力の効用にほかなりません。

 

現代社会に生きる私たちは、この「想像力という愛の源」を日々、削り落として暮らしているのではないでしょうか。

 

「想像力」は「思いやり」と言ってもいい。私たち全員が、人の気持ちになって感じたり、考えたりすることができなくなったら、この世は闇です。

 

人間の想像力が衰える時、人の世に愛がきえてゆく。

 

ジャン・コクトーと小学一年生の詩は、私たちの眠っている想像力を呼び覚ましてくれます。

 

もう、惰性で毎日を送るのはやめよう、と自分に言い聞かせました。

 

例えば、スマホやパソコンを使う時間を極力減らして、眼を閉じ、想像力をふくらませる時間をつくりたいものです。