西行法師が伊勢神宮に参拝した時に歌ったとされる短歌が素晴らしい。
何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
【動画】朗読と感想)西行「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
「素晴らしい」と思わず単純な言葉で賛美してしまったのは、おそらくは、この歌には難しい解釈は必要がないと私が直感したからでしょう。
哲学用語も、宗教用語も、学術用語も、必要ありません。
高尚な解釈は、むしろ、西行に失礼であると私は真剣に思っているくらいです。
これほどシンプルに、人の胸を打つ歌は少ない。
シンプル・イズ・ベストという言葉がありますが、単純なものは、強く、美しい。
現代語に訳すならば、以下のようになるでしょうか。
どなたが(どのような神様が)いらっしゃるのかはわかりませんが、ただもうありがたくて、涙ががあふれてしまう。
「何事の」の意味が少しわかりにくいでしょうか。生身の人ではなく、神様、神的存在を指すために「人」という言葉ではなく「事」という言葉を使っだと浅学な私は推察するしかありません。
ネットで調べても、有名な歌人の解釈は出てきませんので、私としては素直に感じたままに、この歌を受け止めております。
ただ、この点で迷っている人も多いかもしれませんので、古語の専門家の方がいらっしゃったら、なぜ「何事の」と西行が歌ったのかについて、説明していただけたら幸いです。
私としては、伊勢神宮でなくても、近くにある小さな神社でもかまわないと思っています。
大事なのは、目に見えないものに対して、「かたじけない」と感じる心です。
神様も特定の神である必要はありません。目には見えないけれども、確かにそこにおられると感じることができる、尊い存在。
そういう神的な存在を察知する感覚は、人にはもともと備わっているのです。
ただ、ここで確認しておかなければいけないことがあります。
西行の短歌「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」で表出された世界観、それを感じる柔らかな心、純朴な魂といったものは、現代人の生活とはかけ離れていることは、間違いありません。
「今だけ、金だけ、自分だけ」という現実的な価値観が、これ以上浸透すれば、西行の歌を読んで落涙する人が、この世からいなくなってしまうのではないでしょうか。
まさか、そんなことはありますまいと思いながらも、いつでもどこでも、スマホの画面をのぞきこんでいる現代人を見ていると、本当に心配になってきます。
ですから、私としては、微力ではありますが、西行のこの短歌を、事あるごとに紹介し、語り継いでゆこうと思っているのです。
この歌の意味を知ることができて嬉しいです。
2013.2.27付 北海道新聞 卓上四季に出ていました。
2019.10.13日の今日、ネットから検索しました。
私もこの歌に同感です。