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「的を得る」と「的を射る」に関する記事を当ブログが最初に投稿したのは、2011年10月27日でした。
久しぶりに読み返してみて、また辞書も調べなおして驚いたのは、Weblio類語辞典の記述が変わっていたことです。当時は「的を射る」の類義語だった「核心をつく」が「的を射る」の類義語から外されていました。
「的を射る」「的を得る」の言い換え表現として、「核心をつく」を推奨したのは他でもない私なので、この変化(辞書側の修正)には思わず、声がもれてしまったのです。
10年近く時が流れると、いろんな面で言葉の変化は避けられないということでしょうか。
では、以下、本日、2019年6月26日の改訂版「『的を得る』は間違いで『的を射る』が正しい?」をお伝えします。
本当に「的を射る」が正しくて「的を得る」は間違い?
間違いやすい言葉の一つに「的を得る(まとをえる)」があります。正しくは「的を射る(まとをいる)」ということになっているのです。
「間違いやすい慣用句」「間違いやすい漢字」などのコーナーでは、必ず掲載されているのが、この「的を得る」と「的を射る」。
とは申しましても、「的を射る」というふうに書くことはほとんどなく、この言葉を使う場合は、「的を射た」あるいは「的を射ている」というふうに書くはずです。
「核心を突いた意見である」という意味を伝えたい場合、「的を得た意見」は間違いで、「的を射た意見」が正しいとされています。
当サイトでも「間違えやすい言葉と慣用句【文章の基本ルール】」という記事をアップしたことがあり、実は、最初はこの「的を得る」は間違いで「的を射る」が正しいと掲載してみたのです。しかし、今は削除してあります。
削除した理由は、「的を得る」が正しいと主張したいのではなく、「的を射る」の方が正しいと言い切るのも、奇妙だと感じたからです。
「的を射た」という言葉も、どことなく、ぎこちない、というか、積極的に使いたくなる言葉ではありません。
「的を得る」でも「的を射る」でも、どちらも間違いではないとした方が良いと私が思い始めているのは、今のままですと、両方とも使えないからです。
「一生懸命」と「一所懸命」はどちらでも良い、「世論」を「よろん」でも「せろん」でも構わないというのならば、「的を得る」でも「的を射る」でも、どちらでも良いと感じるのが自然ではないでしょうか。
すでに出版されている「文章作法」の類の書籍でも、一冊の本の中で「的を得る」と「的を射る」の両方を使っている例がありました。
おそらくはこれは校正ミスですが、プロ集団でさえ、間違えるような言葉は、「誤用の追認」をした方が良いとさえ思えてきます。意味のない議論を繰り返すよりも、「日常でひんぱんに使われているので、使ってもかまわないことにしてしまう」方がマシかもしれません。
一方では、それほどまでに間違いやすいということは、正しいとされている「的を射た」という言葉自体に問題があるとも考えられます。間違えられ過ぎるのは、言葉として不幸だと思うのです。
このまま間違えられ続けるくらいならば、時代に合わない、誤解を生みやすいという理由から、どちらも使わない方が良いという意見も出てきて当然でしょうね。
そもそも、「的を得る」を間違いだとする説明に、説得力が薄いのです。極端な話、「的を得る」は権威ある(その人が使っている)辞書には載っていないので、今のところ間違いとしておくべきだ、ぐらいの説に過ぎません。
インターネットの辞書で「的を得る」を引きますと、ヒットはします。「実用日本語表現辞典」と「日本国語大辞典」には「的を得る」の説明が載っており、誤用とはされておりません。
それぞれの辞書の「的を得る」の説明を引いてみます。
実用日本語表現辞典からの引用
的を得る
読み方:まとをえる
「当を得る」と、「的を射る」または「正鵠を得る/正鵠を射る」などが混同されて使われる表現。「当を得る」は、理に適っている、の意味。
「的を射る」や「正鵠を得る/正鵠を射る」は要点をうまく捉えているという意味。これらが混同されて「的を得る」と言う場合は、通常は「要点をうまく捉えている」などの意味で使われることが多い。
次は、「日本国語大辞典」の解説。
日本国語大辞典からの引用。
まとを得(え・う)る
的確に要点をとらえる。要点をしっかりとおさえる。当を得る。的を射る。*白く塗りたる墓〔1970〕〈高橋和巳〉二「よし子の質問は実は的をえていた」
この問題について、調べたり、考えたりすることは、私にとって有益でした。
言葉は、使いたいか、使いたくないかという視点も大事。
言葉を使う場合、「正しいか、間違いか」という問題もありますが、「使いたいか、使いたくないか」という問題もあるのです。
権威ある国語学者ならば、正解について、もっともらしい解説をしてくれるかもしれませんが、言葉を使うのは私たち一般人にほかなりません。
正しくないから使ってはいけないと言われながらも、多くの人が間違い続けたために、間違いとは言われなくなった言葉だけを集めてみたら面白いでしょうね。
「的を得る」も間違いではないという意見を述べる人もいます。その理由づけの中で「正鵠を得る(せいこくをえる)」という言葉が必ず出てきます。この場合、「正鵠を射る(せいこくをいる)」でもかまわないのですね。
「正鵠」について、大辞林は以下のように説明しています。
1.せい‐こう【正鵠】
「せいこく(正鵠)」の慣用読み。
2.せい‐こく【正鵠】
《慣用読みで「せいこう」とも》1 弓の的の中心にある黒点。2 物事の急所・要点。
3.正鵠を射る
物事の急所を正確につく。正鵠を得る。「―射た指摘」
「正鵠を射る」「正鵠を得る」の場合は、どちらでも良いのですが、この言葉になじみがない人が、今後「正鵠を得る」と自分のブログには書かないと思います。人は自分が使い慣れていない言葉は使いたくないものだからです。
「的を得た」は私たちの日常会話ではしばしば耳にします。一方「的を射た」は、ほとんど聞きません。声に出した場合、「鈴木さんの意見は的を得ていて感心した」と言った方が「鈴木さんの意見は的を射ていて感心した」と言うよりも滑らかだからでしょう。
「えていて」とは言いやすいが、「いていて」は舌を噛みそうになります。
そういう意味からも「的を得ている」「的を得た」という言い回しに、市民権を 与えても良い気もしてきます。
ただ、現在は、すべての辞書に載っているわけではない、一般的には誤用ということになっていることから「的を得る」とは書きにくいのは事実です。他人に突っ込まれるかもしれないことを、わざわざ書く人は少ないからです。
また、学校や会社の試験に出題された時は、必ず「的を射る」と答えるでしょう。
以下は、私、風花未来、個人の見解です。私が導き出した結論をこれからお話しします。
「的を得た」も「的を射た」も、両方とも使わないと決定。
どの言葉と組み合わされるにしろ、「~を射ている」「~を射た」は言葉として拙いと感じるので、「射」は除外して用法を模索することにします。
「的を射た」意見と言いにくのならば、「的を得た」に替わる、適切な言葉、使いたくなる言葉があれば良いわけですね。
「正鵠を得た」が使いづらいのなら、似たような表現に「要を得る(ようをえる)」「当を得る(とうをえる)」があるのですが、これらはどうでしょうか。
谷崎潤一郎の「文章読本」を読みますと、志賀直哉の「城の崎にて」の文章表現を評して「簡にして要を得ている」と書いています。「表現はいたってシンプルだが、事象の急所をとらえている」と谷崎は称賛しているのです。
「的を得る」のかわりに「要を得る」を使ってはどうだろうかと思ったのですが、この「要を得る」は、その前に「簡にして」がついて、セット使用されることが多いらしく、単独では、しっくりしません。
では「当を得る」はどうか?
「当を得る(とうをえる)」は「道理に適っていること、合理的であること、などの意味の表現」と辞書には書かれておりますが、「とうをえる」は、会話の中で使った場合、意味がよく伝わらない気がしますので、これも使いづらいのです。
そこで私が考えた、現実的な対策は、「的を射た意見」を違う言葉に置き換えてみることでした。
最も一般的なのは「核心をついた意見」でしょうね。
もちろん、他の表現も知りたいので、今度は「核心」を類語辞典で調べてみました。引用元は「Weblio」です。
この表はかなり役に立つと思います。「核心をつく」をそのまま使っても良いし、自分なりに、使いたい表現に変えれば良いだけのことです。今の時代に合った表現が、いくらでも出てきそうだと感じたのは私だけでしょうか。
※さらに興味深いのは、上の表中の「核心をつく」は大幅に改訂されていることです。以下、改訂された部分を引用いたします。
「核心をつく」の意義素
物事の本質となる部分に触れること
「核心をつく」の類語
核心に切り込む ・ 核心に触れる ・ 本質をつく
何と、辞書としては、「核心をつく」の言い換えバリエーションは3つに限定されてしまった。
つまり、「核心をつく」と「的を射る」は類義語ではないと、切り離されてしまったのです、
あまりにも窮屈な感じがしますので、言い換えのバリエーションを増やしてみます。
「核心をつく」の言い換えバリエーションを増やしてみました。
現代的ということであれば、「ポイントを押さえた意見」と言った方が意味はとりやすいですよね。
その他には「急所をえぐった指摘」「本質を言い当てた発言」なども使えるでしょう。
「的を得る」は間違いだから「的を射る」と書くべきだという不毛な議論をしないためには、「的を得る」も間違いではないことにするか、両方とも使わずに違う表現に置き換えるしかありません。
現状では、間違えやすい言葉、間違えられやすい言葉はできるかぎり使わずに、明快な言葉で同じ意味を表現するべきでしょう。
以上の理由から、「的を~ている」「的を~た」という表現は、私はもう使わないという結論に達しました。
私の方向性は完全に決定したのです。
今後は、「核心をついた意見」では少し固いと感じた場合は、自分なりに違う言い回しで書いたり言ったりしてみたいと思います。
最後に「的を得た」および「的を射た」の言い換え表現のバリエーションを、以下でまとめてみます。
核心に切り込んだ ・ 核心に触れた ・ 本質をついた・ポイントを押さえた・急所をえぐった・本質を言い当てた・本質のど真ん中を射ぬいた・本質のまん真ん中をついた
いかがでしょうか? あなたの言い換え表現がありましたら、ぜひ、教えてくださいね。
では「とんでもないことでございます」は、どのように言い換えますか?
ぜひとも、言い換えにチャレンジしてみてください。
文中「日本語大辞典」とあるのは、「日本国語大辞典」の誤りではないでしょうか。
BIFF様へ ご指摘、ありがとうございます。「日本国語大辞典」と修正いたしました。今後ともご指導のほど、よろしく、お願いいたします。
日国の編集者の神永さんも、ほとんど同じこと書かれていますね。
yama様へ 良いサイトを教えていただきまして、ありがとうございます。神永曉さんの記事、気負いがなく、なんか、ま~るい感じがして良いですね。これからも、よろしく、お願いします。
そういえば、中谷臣先生(駿台予備学校世界史科講師)のホームページではこんなことが書いてありました:
射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です
匿名様へ 「正鵠を失う」からですか……なるほど、その視点からですと、問題がわかりやすくなるかもしれませんね。
貴重なご示唆をありがとうございました。今後とも、よろしく、お願いいたします。
不毛な議論にしてるのはいつも誤用をごり押ししてる側なんだから両方とも使わずに違う表現にする以外に解決法はないと思われ。
間違っていると言われてる側がこれも正解にしろなんて言ったら火に油を注ぐだけ。
そういう議論は面倒なんで参加しないけど、ことこれに関しては弓が好きなんで射るのほうにしてほしいがね。
因みに中谷とかいうのは正鵠を失うから的を得るまでの変化を推測にも関わらず文献も示さずに決めつけてるアホ。
正鵠を失う⇔正鵠を得るとは別に的を外す⇔的を射るから来てるかもしれないし、得るや当たるといった言葉を使わないのには意味があるかもしれないのに。
的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望
正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある
正鵠は的の中心の黒星のこと→それは西周、大槻文彦、服部宇之吉たちが勝手に作った意味が日本と中国に広まっただけ。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく、単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ。「皆侯之中、射之的也」と反論したら笑うよ?
得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。得より取のほうがよっぽどマシかもね
射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある
昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本最初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた(どれも戦前から使用)。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る
的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない
的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
根拠を出せ→民明書房にも劣る駿河台予備校世界史講師中谷臣のソースを信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね
無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破によって正論か決まるわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください。間違った言葉を使う人は勉学的バカだが、そういう人をバカにする人は人間的バカである。そして的を得る・得正鵠・正鵠を得る信者は両方の意味でバカである
オーッホホホ!それで的を射る・正鵠を射る・中正鵠ファンを倒したつもり?おばかさんにもほどがあるわね
的を射る・正鵠を射る・中正鵠の正しさは不滅なのよ。さあ的を得る・得正鵠・正鵠を得る信者のぼうやたち、いらっしゃい。言葉とは何かを教えてあげるわよ
「的を射る」と書いて、「まとをえる」と読んでいいということにしたらどうかと、長いこと思ったりしています。(つまり、「射」という漢字の読み方を増やす)
ご無沙汰しております。
「的を得る」については、昨年12月に『三省堂国語辞典』が誤用説を撤回したことで、事実上決着がつきました。
まだ、誤用と載せている国語辞典は残っていますし、これだけ世間に広まってしまった誤用説が消えるのには時間が掛かると思いますが。
みなさん「BIFFの亜空間要塞」のトンデモ理論にだまされないでください。
BIFFさんのブログにカキコしても削除されてしまったので、ここでBIFFさんへの反論をします。
漢語で「失」は「それる」意味があり、礼記の不失正鵠は「正鵠をそれず」という意味で「失わず」だと意味不明になります。
「失」の対義語はあたるの「中」で、失正鵠の対義語は中正鵠です。そして得正鵠は存在しません。
虞集『尚志斎説』などで用例もあります。下記のサイトで「中正鵠」で検索してください。
BIFFさんの「礼記の『正鵠を失わず』を…」という論はこの時点で破綻しています。
日本語の「正鵠」は西周が『五国対照兵語字書』で仏語の' blanc de cible' という射撃の標的の中心の白円を黒星ではないにも関わらず強引に「正鵠」と訳し、大槻文彦が『言海』で的の黒星と自分勝手に創作し、服部宇之吉の「鵠」に的の黒星の意味があるという誤解し、それが日本と中国に拡散しただけです。
つまり日本語の正鵠は中国語の正鵠と別物どころか仏語としても間違っています。
BIFFさんの「中国の正鵠は日本に来て『的の中心の黒星』になった」という論ははじめから間違っています。
「得」には「あたる」意味は存在しません。これは日本・中国共通です。
BIFFさんは「『得』には色々なニュアンスがあります」と主張していますが、「得にあたる意味がある」とするには力不足としか言えません。
「射る」には「あたる」意味があります。『平家物語』の「扇の的」で『うつ』を「放つ」、『射抜く』を「射切る」、『あてる』を「射る」と言い分けているのは明白です。
BIFFさんの「『的を射る』は文字通り矢を撃つだけ」とする発言は古典を愚弄しているとしか思えません。
「鮪」「鮭」など、日本は独り善がりな推測で漢語の意味をこうであると決めつけ、漢語を正確に伝来せず、それらを「間違いだが正しい」と認めざるを得なくなりました。
「正鵠を得る」もその一つです。そして正鵠を得るは「得正鵠」という意味不明な語句を中国に伝えてしまいました。
カタカナやひらがなや日本オリジナル漢字は正真正銘「日本の文化」ですが、勘違いしただけの言葉を「日本の正しい文化」とするのは単なる開き直りです。
「挨拶の魔法。挨拶するたび友達増えるね」とか恐すぎる。
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順にこれらの言葉が誕生しました。どれも戦前から用例があります。
BIFFさんの「的を得ると的を射るの戦前の用例が見つからない」というのはダメダメです。
誤用は「『使い方を』間違える」意味であり、「間違える」意味ではありません。
BIFFさんの「的を得る誤用説は…」という発言は誤用を誤用しています。
的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではないです。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語では認められません。
BIFFさんは「100階から目薬。写輪眼が無い。馬の耳に聖歌。ハローキティに小判」は正しいと主張するべきです。
このままではBIFFさんたちのせいで日本語・中国語、そして仏語が破滅してしまいます。
お願いです!みんなの力を合わせて、「的を得る・得正鵠・正鵠を得る」という邪悪な言葉を滅ぼしましょう!
あ、肝心なことを忘れていました。
BIFFさんが「正鵠を得るがなければ的を射るは生まれなかった」と反論しています。
しかし、「的外れ」は 18 世紀から、「当たらずといえども遠からず」は 1810 年頃から用例があります。
つまり「的を射る」が「正鵠を得る」が存在しなくとも慣用句化したと言っても、正鵠をそれてはいません。
おぉっと、挨拶の語源を調べていませんでした~!それと日本の正鵠は合類大節用集のマトノメアテでした( ^ω^;)
しかしこれでは「正鵠と的は別物」となるので、正鵠を得る→的を得るはなんだかおかしいですね
BIFFさんの図解ではさり気なく「正鵠=的。的を射る=的に向かって矢を放つ」となっていますね…!?
これはBIFFさんにとっては変化となるのでしょうね…
三省堂より前から「的を得るは誤り」という説が存在します
BIFFさんは「当を得るとの混同だと言っているだけ。根拠がない。話題にならない。よって三省堂が誤用の総本山」と言っています
BIFFさんは「間違いの原因は不明だが、的を得るは間違いだという認識はされている」という可能性を排除しています
また三省堂より前に文化庁が「的を得るは間違い」と言っています。「日本の意見」より「三省堂の意見」。それがBIFFさんです
しかも三省堂が誤りを撤回した理由は「正鵠を得るだから的を得る」という得る派の普通の意見ではなく「うまく捉える意味だから」という理由です
BIFFさんは「日本だから『不失正鵠』は『正鵠を失わず』と日本式で読んでいい」と言っていますが、その国の意味、その時の文化で読まなければ意味不明な文章になるのに、なぜ他国の書物を自国の文化で読まないのでしょう?
「糞うぜぇマジshine」と書いてあって、それを外国人が「shineは日本で死ねだけど、読んでいる私は日本人じゃないから輝きと読む」
古典に「ことわる」と書いていたら、現代の人が「昔はことわるは判断するという意味だが、今の文化では拒否することだから、これは拒否する意味でいい」
中国の本で「手紙でお尻を拭く」と書いていたら、日本の人が「中国ではトイレットペーパーだけど、ここは日本だから日本の手紙の意味で読む」
日本の本で「切手が趣味」と書いていると、中国人が「日本の切手と別物だが、中国の意味でリストカットが趣味と読んで問題なし」
という理論が正しいとでも言うのでしょうか?
異文化だからこそ、自分の国や時代の文化を棄て、相手の国や時代の文化で受け止める
そうであるからこそ我々は過去の書物を読むことができ、お互いの文化を尊重しあえるのではないでしょうか…?
「不失正鵠」を「正鵠を失わず」とするのは誤訳以外のなんでもありません
「正鵠を得る」は「勘違いから生まれた」「ギャグ」というだけ
正鵠を得るは日本で正しいから的を得るは正しいという論は、「ホワイトシャツはワイシャツで正しいんだ!ブルーのワイシャツは正しいんだ!」と言っているのと同レベルです
最初から正しい言葉とゴリ押しで正しくなった言葉は全然違います
余談ですが心理学的には「難解な言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされています
BIFFさんェ…
的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望
正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる・すべ・はずれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)
虞集『尚志斎説』などで用例もある。下記のサイトで「中正鵠」で検索してみよう
正鵠は的の中心の黒星のこと→漢籍では的自体を指す。日本での意味は槇島昭武の個人言語から広まった可能性あり。西周がそれを参考にしたのか、仏語の' blanc de cible'を正鵠と訳し、弓道の正鵠ができた
結局西周が正鵠と訳した対象は、銃に関わるもので弓とは無関係。日本の弓術は矢が的のどこに当たったかで評価は変わらない。得点的は西洋からきた
中国の正鵠≠日本の正鵠≠仏語の正鵠≠弓道の正鵠。「正鵠を得る=的の中心を射抜く→要点をつかむ」という解釈は近代的・西洋的である
得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。
射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→射るには当たる意味がある。『平家物語』の「扇の的」で「うつ→放つ」「射抜く→射切る」「あてる→射る」と言い分けている
失の対義語は得である→得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失業⇔就業。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。あれれ?
昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=正鵠に中つ=中正鵠=正鵠をそれず=不失正鵠≠正鵠を失わず=正鵠を得る=得正鵠=的を得る
的を得るは誤用じゃない→誤用の意味は「言葉の意味を誤って使う。言葉自体を誤ることではない」。的を得るは誤用ですらない
的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
正鵠を得るがなければ正鵠を射るも的を射るも作られなかった→「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある
三省堂が誤用撤回したから正しい→規範主義でもない記述主義の三国の「誤用。正用」を参照するの?
的を得る誤り説の初出は三国じゃない。三国の前のものには論拠が無い?話題にならなかったから大したことない?論拠を間違えただけで、的を得る自体が誤りという認識があり、的を得るが誤りという論に違和感がなかったかもしれない
それを言うなら、的を得る派が正鵠を得るの基となった正鵠を失わずが正しいとする論拠を一切提示していない
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
BIFFの亜空間要塞は正しい→的を得るを勝手に慣用句にする。的を得る未掲載の辞書を得るを容認しているように話す。日本の正鵠の初出を勘違いした相手を調査不足だと人身攻撃も厭わない。無知と卑下しながらインテリナルシシズム全開
余談だけど心理学では「難しい言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされている
日本と中国は異文化。正鵠を得るは中正鵠でなくて不失正鵠を「正鵠を失わず」と日本読みし、そこから生まれた日本の慣用句。中国にない表現でも誤りではない。日本独自の文化。そもそも異文化を間違いなく解釈することなんて無理。変化は必然。失わずは決して間違いではない
→金玉均はきんたまきん?開眼をかいげんとかいがんのどちらで読んでもいい?『ボールが外れたから拾う』を『ボールを失ったから拾う』と通訳する?礼記は日本の本?漢語の失正鵠の対義語は得正鵠?
外国人「糞うぜぇマジshineと書いてるが、死ねじゃなくて輝きと訳して問題なし」
日本人「英文で『難病と闘う少年にクラスメイトみんなでshineと言った』という文章があったので、みんなで死ねと言ったと解釈しよう」
中国人「日本の小説で『戦友から託された手紙』という文章があった。トイレットペーパーを託されたという意味に違いない」
メロンパンナ「神戸市民から美味しいサンライズと毒入りメロンパンを貰った。私はサンライズがメロンパンだと思うので、私にとってのサンライズを食べる」
現代人「古典でことわるという単語が出た。判断する意味じゃなくて現代の意味で読むべき」
アメリカ人「日本の子供はポケットモンスターが好きで、ポケットモンスター専門店があるらしい。日本の性教育はおかしい」
現代人「昔の医学書に『この患者は二の腕に注射しないと助からない』と書いてあった。現代人だから一の腕に注射する」
タイ人「日本人は性的な意味で好きな人にmoeと言うようだ。なるほど陰毛か」
イザナミ「雨上がり決死隊のホトちゃん=雨上がり決死隊のvaginaちゃん」
北海道民以外「北海道民が『子供をチョコでぼったくった』と言った。この北海道民は子供から金を巻き上げた」
沖縄県民以外「沖縄県民が『まんこでしゃせいした』と言った。vaginaでejaculationだろう」
この人たちが「異文化だから間違えても変じゃない。俺たちの文化に当てはめて何が悪い。言葉は変化するものだ。何も間違ってない。現代日本人だって不失正鵠を正鵠を失わずと読むだろ!」と言ったら?
的を得ると得正鵠の基となった正鵠を得るの基となった正鵠を失わずを認めるなら、この人たちの理屈を認めなければダブルスタンダードだと思いませんか?
大きな事柄は小さな事柄の積み重ね。正鵠を失わずを正しいと認めるの?
文字とは昔から今、今から未来へと続いていく約束事だ。それが守られるから現代人は過去の書物を理解し、未来の人々に我々の意思を伝えることができ、異文化と交流できる
文字とは公共財だ。もし自分勝手に意味を読み変えることに寛容であれば、文字の体系性が破壊し、コミュニケーション機能が崩壊し、文字が文字の役目を果たせなくなる
我々人間が他の生き物と違うのは言葉が使えること。自分の意思を相手に伝えるからこそ人間社会は成り立っている
「言葉は生き物。意味が通じれば誤りや誤用でも大丈夫」という意見があるのは、「相手に伝えたい」という言葉が存在する意味を理解しているからだ
言葉は自分だけでなく相手を救うもの。相手を尊重するからこそ、我々は文化・時代・国を超越して理解し合えるのだ
それは文化ではなく、人が人を想う心そのもの。互いが互いを思いやる人間として当たり前のこと
それを「自分の文化・時代・国として読みが正しければ、相手の文化・時代・国を無視した意味でも正しい」とかどんだけワガママなんだよ
村岡花子の爪の垢を煎じて飲まなくちゃ、ダメよ~ダメダメ
最近「三国が認めたから正しい」と言っている人をよく見ますが、そういう人たちは「辞書がどのように作られているか」「規範主義と記述主義(実例主義)」をご存じでしょうか?
「辞書は正しい」と思い込んでいる人は、のブログを読んでみてくださいね
もう一つ
「三国が誤用撤回したから的を得るは正しい」と言っている人は、三省堂国語辞典はラッスンゴレライを載せてもおかしくない辞書であると理解しているのでしょうか?
新聞社の元校閲記者の金武伸弥氏によれば、新聞・出版界では、大きな辞書にない言葉でも三国を引けばある、と冗談まじりに言われるそうです。
記述型(実例主義)を標榜する辞書が誤りと書いたこと自体がおかしい。同様に正しいとしてもダメだ。
「三国は正しい」と主張する人は、
ローマ法王「神は存在しない」→カトリック教徒「こんな権威のある立派な人が言うから神は存在しないんだ…!無神論者はこの発言に影響を受けたに違いない」→法王「ごめん。やっぱり神は存在する」→教徒「権威者が撤回するくらいだからちゃんとした理由があるはず。神は存在することが確定した!」
イスラム教カリフ「神は存在しない」→イスラム教徒「こんな権威のある(以下略)
ということが起きてもツッコミ所があることに気付かないのでしょうね。
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を「三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない」「国は三国だけでは見解を変えない」「辞書は正しい言葉を載せている訳ではない」と明白に否定している。
三国の飯間氏のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆している。国及び三省堂含む辞書出版社は正鵠を失わず正当論を決して認めていない。
これがでっち上げだと疑うのなら問い合わせメールをアップすることもできます。それでも信じられなければ実際に問い合わせしてはいかが?
【ムショニ】
無知と卑下したコメして 知性うぬぼれ全開
ろくに翻訳もせずに ブログで勝利宣言
自国らしく 読んでますか? 正しい意味 そこにありますか?
ブログ荒らしてサヨナラ かるいノリでイキましょう
さんざん和語調べても そこになんにもありゃしないよ
他国の本だからmiss あなたがたもぜひ
一度訳してみたらどう それじゃshine(輝き)shine(社員)shine(かたい)
角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせてみました。回答は以下の通り。
お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。
他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
BIFFブログやブログ「こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からない」も紹介しました。
どこも大体同じ回答でしたよ。「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。
問い合わせるまでもない返答。「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちがどう思うかによってその言葉の意味を決める」という辞書の根源的なことを説明されただけ。
中正鵠について話してみると「kwsk」という反応も。
そして三省堂に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は記述的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせた結果は以下の通り。三省堂は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていない。
「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。
角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせてみました。回答は以下の通り。
お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。
他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
BIFFブログやブログ「こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からない」も紹介しました。
どこも大体同じ回答でしたよ。「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。
問い合わせるまでもない返答。「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちの語感によってその言葉の意味を決める」という辞書の根源的なことを説明されただけ。
中正鵠について話してみると「kwsk」という反応も。
そして三省堂に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は記述的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせた。
「的を得るの正誤の議論は決着がついたのか」という質問には直接言及しなかったけれど、返答内容から「決着はついていない」と示唆している。結果は以下の通りで、三省堂は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていない。
「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を「三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない」「国は三国だけでは見解を変えない」「辞書は正しい言葉を載せている訳ではない」と明白に否定している。
三国の飯間氏のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆している。国及び三省堂含む辞書出版社は正鵠を失わず正当論を決して認めていない。
これがでっち上げだと疑うのなら問い合わせメールをアップすることもできます。それでも信じられなければ実際に問い合わせしてはいかが?
天の風琴が奏で落ちる。その旋律、凄惨にして蒼古なる雷
ブルーティッシュボルト!
とりあえず証拠として角川書店の問い合わせメールの画像をアップしました。パワードは「gachirezu」です。携帯直撮り+横向きでゴメンね!(*σ・ω・`*)てへぺろ
「角川書店は本物でもあとはでっちあげだ」と言いがかりをしますか?とどめをさされたいのですか?
まぁ、飯間さんのツイッターを見ての通り「記述主義である三国の編集方針に従った」だから、わざわざアップする意義もないでしょう
「三国がほかの辞書に多大な影響を与え、そして世に広まった」…?「三国は国や他の辞書に直接影響はないものの、一般市民に影響を与え、その結果として国や他の辞書にも影響した」と路線変更するのかな?
いやいや、事実上決着と主張しているのだから、「国も三国も三国以外の辞書も認めない」という真実を覆す論拠があるのでしょう
なんたって国と三国と三国以外の辞書に立ち向かおうとしているのですからね
中国で和製漢語が広まった理由は、中国の研究家によると、意味に違和感がないからじゃなくて、和製漢語がなだれ込んだ上に文法に違和感がないから
得正鵠が中国に伝わったのは違和感がないからと思う人は、「和田アキ子が男泣き」という文章に文法に問題がないから違和感がないのでしょう
失と得は相互に呼応していると主張する人は、失敗はしても成功はしたことがなく、逃走犯を見失ったら見付けずに見得ようと頑張り、礼を失するといけない状況で礼を尽くさずに礼を得るのでしょう
そしてみんなが失職の対義語である就職するための活動中に得職活動していたのでしょう。ためしに得職で検索しても、フジテレビのサイトと別々の単語の続きで得職になったっぽい中国サイトしか出てこなかったんだけど
不失を訓読みで失わずと読んでもいいと主張する人は、「賜汝好物也」を訓読みしてトンデモネェ意味にして日本が誇る卑弥呼様をがめつい女とディスっても全然気にしないんだろうな
passion-playを情熱のプレイと読ませる戸田奈津子レベルだわ
言葉は変化していくものだけれど、「国民を守るために他に適当な手段がない」の適当の意味を「高田純次やザキヤマみたいに適当」と解釈しちゃってもいいと言うのかい?!
異文化を自分の文化に置き換えて読んじゃちゃいけないという話なのに、「漢籍にない表現でも誤りではない。たとえば中国には咲くという表現はない」と言われてもリアクションに困っちゃう
自分の文化が偶像崇拝禁止だからって、他の文化の建造物を破壊するどっかの激ヤバ集団じゃないんだから!
一つ
2つ
3つ
3つ
あなたは、最強のお花畑ブログ信者の称号を手に入れた先に、なにを望むの?
フフッ
余計なお世話だったかしら。あなたには、きっと
角川書店からの問い合わせメールをアップしても有効期限があるので、ブログにメール画像を貼ってみました。
スライム国のおへや 「三省堂国語辞典第7版で誤り撤回で決着」論への反論
このコメント欄を見ただけで、
関わってはいけない話題だとわかる
激しく同意
頭のおかしい人同士が言い合うためのネタのようで
ブログ主さんのように「使わない」が正解だと思いました
的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。
→
的を射るを勝手に慣用句にしない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか。「的を得る」は「要点を上手く捉える」という意味の日本語の慣用句である。
「正鵠を射る/的を射る」は「正鵠を得る/的を得る」の訂正であって誤りではない。
→
訂正とは、誤りを正しく直すこと。そもそも「正鵠を得る/的を得る」が誤りでないのだから訂正ではない。
「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある
→
仮に「的を射る」が「的を得る」からの変化ではなく、「的を得る」とは独立して慣用句化されていたのだとしても、それは「的を射る」"も"誤りではなかったと言えるだけ。
中国でも日本でも得に当たる意味などない。
→
少なくとも日本では得を「当たる」と使う例がある。(例:的を得る)
得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失業⇔就業。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。あれれ?
→
一得⇔一失。失敗⇔希功? 失望⇔成望? あれれ?
(解説:「失」の対義語に「得」以外が使えることを示しても「得」が「失」の対義語でないとは言えない)
あのね、的を得ると正鵠を得る(というか正鵠を失わず)が正しいとする論拠を示していないから、それだけではちょっと…。
現代の感覚で語るなら、得る=点数を得るという意味と理解できれば解るんじゃないかな?
外国人が外国人のために外国語で書いた外国の文化の外国の本に書いてある「不失正鵠」→訓読で正鵠を失わず。この時点でおかしい。
要点を上手く捉える意味があると言ってるのは三国程度。他の辞書や文化庁は三国に追随する気はないと言ってますよ。
とある辞書に送った問い合わせメールの返信のコピペは↓
編者は「的を得る」など使ったことはない。以前から弓矢で「的を射る」と言うので、当然「射る」ものであって「得る」ものではない。
この慣用句「的を射る」はそこから転じて物事にも言うようになったまでのこと。
「的を得る」と言うようになったのは「当を得る」との混同もあれば、「射る」と「得る」の類音の影響もある。
「正鵠を得る」を持ち出さずともよい。「正鵠」は難しい漢語で、知識人のことばであって、一般人は知らないし、使わない。
編者は『三国』をはじめ、各種の辞典類を読んでいる。また文化庁の記述も読んでいるので知っている。
しかし、それが「影響を受けたかどうか」と言えるものではない。
『三国』が「的を得る」を誤りとせずに掲出したことについて、誤りのほうが増えたため、一般化したと考えたのであろう。
しかし、規範から言えば「誤りである」とするのは当然である。ことばの誤りはいつの時代にもあり、それを「誤り」とするかどうかは時代により、一般化したどうかによる。
以上、編者の言語知識、規範意識から現在、「的を得る」を誤りとした。
「正鵠を得る」と「正鵠を射る」が同意なのはどちらも『的の中心にを捕えた』という表現だからであって、一方
「的を得る」では漠然として中心を得た事にならないし、
ただ的を物理的に得たのか?
或いは的の中心以外に矢が刺さったのか?とかいろんな解釈が成り立ちますよね?
少なくとも狙った矢が標的を貫いた…という事に限定できなければ、
本来表現したかった意味に近づかない以上、
「的を得る」を正解だとする見解は弱いのではありませんか?
「正鵠」には単に的の中心という物理的な意味だけでなく、精神的な狙い、要点、その射の本質というニュアンスが強くあると思います。
例えば1900年頃の弓術の達人、阿波研造は「正鵠」と題して「一、身を持するに厳正を的とす 一、家を治するに和合を的とす 一、業に服するに…」というように説いています。「的」にも「核心」という意味がありますが上記の実用例を見るに「正鵠」の方がよりそのニュアンスが強い言葉と言えるかと思います。
そういうわけで「正鵠を~」と言えば、的と言わずに敢えて正鵠と言っているので「射る/得る」いずれの場合も、単に的中させたという意味以上に解しやすく、「核心をついた」事の慣用句として成立していると思います。
一方「的を~」の場合は、「射る」と言うと第一に「的に向けて矢を放つ」意味があり、必ずしも「的を射抜いた」場合を表せてはいません。また、物理的に的を射抜いた状態でも、例えばまぐれ当たりの場合も含まれる為、「核心をついた」様子を十分表現できているように思えません。
しかし、「得る」と言った場合、「得る」と言えるのは狙いを定めた対象を意図通りに捉えた場合だけなので「本質、核心、急所を捉えている場合のみ」が表現されており慣用句の意味とよく合っていると思います。
ちなみに、矢を放つという第一の意味の「射る」は古事記にも登場し、武器で標的を捉えた時に「得たりや」と言い、弓矢であれば「射得たりや」と言うことは平家物語にも出てくるほど歴史が古く、今でも神事では「射得たりや~!おう!」の掛け声が使われています。
また、「得たり」というのは実際に標的に攻撃を与えた後ではなく、その前に狙いが定まって、今で言う「もらったー!」状態の時に成立しています。弓術の達人に言わせれば「的中とは射得たりやの心の響き」だそうで、的を得たなら矢が外れることはありません。逆に言えば、的(本質)を得たのであれば、放たれた矢が物理的に的のどこにあたろうが、射の前に既に精神的に本質を捉えている事になるかと思います。
失礼ながら、誤用した人の言い訳を、長い文章でさも誤用だとは必ずしも言い切れないかのように、しかも権威がありそうな引用まで駆使して、まるで疑似科学の論理展開のように代弁しているなあと思いました。
日本人の口元がだらしなくなってきたことが一番の原因だよ
筋肉を使いたくないから、文中の「い」が「え」になる
言い回しが面倒だから、だらしなく「え」になっていく
緊張感と品格がなくなっている証拠 必ずしも良い傾向だとは思わない
同じ人が名前変えて連コメしてんのか?
似たような煽りのコメントが多すぎる
なんでそんなに認めたくないのかわからんな
まぁ的を射たの方が綺麗だとは思うけど
的を得る否定派「スライム国」の自演だよ。
上でテンプレ云々貼りまくって暴れてるやつもね。
ちなみにここのID:+7sM8EFjjvもスライム国。
好き勝手に暴論を展開して自分のブログまで宣伝しちゃってる始末。
案の定論破されちゃってるけどねw
すごくどっちでもいい。
傍らなのか片腹なのかと同じくらいどっちでもいい。
フレンチキスみたいに反対の意味で誤用されているというのならまだしも。
まあ誤用されているフレンチキスもそれはそれで利用価値があるのだが。
射るだと、まだ中ってないように感じるのである。
この問題を紐解いていくうちに、もしかして射るとは中っているという意味なのではないか?ということにはじめて気がついたが、学がないと、あるいは弓道の知識がないと、射る=弓を引くこと、と思っている人も多いのではないだろうか。
動詞を、単純に動作することととらえることで、現代語使いはそのように感じてしまうのだろう。
「当てる」であれば、当たってからでないと絶対言わないのだが。
射るは言いにくい得るにしよう
うーん...ゴリ押し
的を得る方が本来の正しい言葉で的を射る方が間違えですね
実用日本語表現辞典に「言い得て・・・うまく言い当てて、的確に表現していて、物事をうまく捉えていて、などの意味の表現。」とあります。
少なくともここでは『得る』を「うまく当てる、的確に、うまく捉える」という意味で説明していて、『言い得て妙』は「的確に(ズバリと)言い当てていて素晴らしい」という意味になります。
『的』には面積がありますので、『ぴったり(中心)』から一定の許容範囲があります。(←註;某所からの引用)
はたして『的の中心』を外しておいて「素晴らしい」と表現するでしょうか?(つまり、『得る』は『的の中心に当たっている』ことを表現していると解釈できる)
ところで、『図星』という言葉があります。
『図星』は「(弓道で使う)的の中心の黒丸」という意味です。
それ故に「狙った所、目当ての所、思った所、急所」や「(それらに的中させ)まさにその通り」という意味も持ちます。
「的を○る」を『図星』の意味で使うのであれば、『得る』の方が文字通り「的確に言い当てている」のではないでしょうか。
ただ、だからといって「『的を射る』の方が誤用」という結論ではなく、『論拠の相違』の問題だと思います。
私も当初『射る』だと「射放つだけで当たり外れは関係無しじゃん」と単純に思ってましたが、「将を射ん(射落とそう)と欲すれば~」のように「射る=射抜く=目標物(的)に当てる」という意味で使われているので、『標的に当て(ようとす)る』行為は『射る』も『得る』も同じで、『得る』の場合はその『目標』が『弓道の的(特に図星)』であり、『射る』の場合はその『目標』が『弓術の獲物』を指しているものと得心しました。
つまり『図星に当てる』ことを目的としたのが『的を得る』であり、『獲物に当てる』ことを目的としたのが『的を射る』で、前者だと「まさにその通り!」となり、後者だと「まあ、そうだよね」という解釈で、両立させるのが妥当であると考えます。
それでも比喩表現として『的を射る』を使うのには、まだ違和感があるんだよなぁ。
『的を得た・的を射た』『的を得てる・的を射てる』『的を得る』という表現に馴染みはあるけど、『的を射る』を比喩表現として使う場面を見た覚えが無いんだよなぁ。
そして「『的は射るもの』だから『射る』が正しい」で押し通そうとする人は、『比喩表現』というもの自体を否定したいのかなぁ(苦笑)
その理屈だと『的を絞る』も「的は絞れるものではない」って理由で『誤用』になるし、「○○は△△するものだから△△が正しい」なんて言い出したら、『サイトに書き込む』も『ブログで発言する』も「キーボード(またはタッチパネル)で入力(表示)するんだから『入力(表示)』が正しい!」ってコトになるのに、コレを指摘すると「自分の専門分野外なのでノーコメント」って逃げちゃうんだよね(失笑)
『普遍的な理屈』の話をしてるのに『専門分野外』って(苦笑)
それから、あちこちで持論を執拗にコピペして知識人ぶって悦に入ってる輩は、ホント、ウザくてキモい(苦笑)
純粋な探究心からではなく、虚栄心と自己顕示欲から「俺の方が知ってるから俺の勝ちィ!」って自己満足に浸りたいだけの似非インテリじゃん(笑)
こいつらは的と正鵠に親を殺されたのか
親でも殺されなきゃ白熱した議論もできんのか。
まあ、中にはふざけ半分の人も居るようだけど。
的に対して「得る」という言葉を当てるのは、比喩でもなんでもなく常識の範囲で可能なんですよ。
「上手く仕留めたぞ」の意味である「得たりやおう」という言葉もあるし、なにより誤用の引き合いに出される「当を得る」の「得る」も「捉える」の意がある。
的に対して捉えたり仕留めたりは、全く不自然な表現ではない。
少なくとも「的は射るもの(であって得るものではない)」という持論をお持ちの方々は、明らかに調査不足、理解不足かと思います。
その昔読んだ解説では、「的を得る」の主体は「矢」なんだそうです。
手元を離れて飛んで行った矢が「的を得る」、とこういう解釈になります。
「的を射る」だと主体が「射手」の方になってしまいますよね。
さらに、的を射たまではいいものの、的に当たるかどうかはまた別問題なので、
「的を射る」という表現ではニュアンスが微妙に変わってしまう
とも解説されていた気がします。
なに?なんでみんな「外国語の誤訳」の話題をしないのよ?
不失正鵠を基にして正鵠を失わずが(ry→漢語で失はmissで、中正鵠なんですけど?
戦後で正鵠から的に(ry→戦前から的を射るがあるんですけど?
三省堂国(ry→国語学・言語学、規範主義・記述主義って言葉ご存知?つーか文化庁や辞書出版社は三国に追随して見解を変えないと言ってるんですけど?
で終了やんか。ていうか、誰一人として、
不miss正鵠=正鵠をlostしないが不当でないなら、糞うぜぇマジshine=糞うぜぇマジ輝きも不当じゃないよね?
という論に反論できてねーじゃねーか。
もう的を得る/正鵠を得る/正鵠を失わず元来不当ではない論信者の君たちが勝つには、トランプ大統領もドン引きするほどのフェイクニュース拡散で既成事実にさせるしかないね。
スライム国のおへや「三省堂国語辞典第7版で誤り撤回で決着」論への反論
スライム国のおへや的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ
そもそもお前はニコニコ大百科の方で議論を放棄し敗走しただろう
中卒のくせに利口ぶると余計に恥をかくぞ
きみは論理学を少しもかじったことがないんだろうね。
的というものを射抜くから的を射たような~、なのであって、的を得るってどんな状況だよ泥棒か?という違和感から[的を得る]は正しくない、ってだけだと思うのですが......。
矢張、的を射るでしょう。的を得るって逆に意味が通じません。
私も、的は弓で射るものであって、得ると記述されていると、泥棒?掛けてある的を外して手に入れたの??と、非常に違和感を覚えます。
矢が的に当たること=的を得る
矢は射るものだけど的は射らないよ
百歩譲って「的を射る」が的に向かって射る(撃つ)という略称だとして
それだと放っただけで的に当たったわけではないので本来の「的を得た」的中したという意味合いとは違う事になってしまう
そもそも「射る」という言葉に的中したという意味は含まれていないあくまで「放つ」の意味合いだ
この話題でよく目にする「正鵠を得る」の鵠(くぐい)は鳥の名
獲物である鵠を得る為の練習として的の中央に鵠と書かれたのが語源
矢を射て的(鵠)を得るだから矢は鵠に的中した事を指す
よって「的を得た」が正しい使い方
『的を射る』の場合、的に向かって放つ(射る)だからまだ的に矢が当たったわけではない、もしかすると的外れかもしれない
『正鵠を得る』の鵠は鳥の名で、この鵠を得る為に練習用の的の中央に鵠と書いた部分が正鵠
鵠を得たという事は矢が的中した事を表すので『的を得る』が正しい
このガバガバ理論しちゃう人もうこれで何人目?
いいこと思いついた。お前、「スライム国のおへや 的を得る正当論を滅ぼすためのブログ」で検索しろ。
スライム国のおへや「三省堂国語辞典第7版で誤り撤回で決着」論への反論
スライム国のおへや的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ
この理屈で言うと「獲物を射る」「獲物を撃つ」も
「獲物を得る」の方が正しいんでしょうか。
どちらでも正しいです。射たものが当たった場合も「射る」で良いです。
ただ、「的を射(得)る」という言葉の意味(うまく要点をつかむ)を考慮したとき、「射る」という現象を表わす単語からは「うまく」という感覚的な意味を連想しにくいのも事実で、これが多くの人の違和感になっているのだと思います。
うまく要点をつかむということは、単に当てる(≒射る=hit)とは一線を画す意味であると考えられます。
例えばクイズに正解(correct)しただけでは、なかなか「的を射(得)る」とは言いませんよね。
何故その答えになるのか理由を聞かれ、分かりやすく的確に説明できて周囲を感嘆させた(wonderful)時に初めて「的を射(得)る」となるのではないでしょうか。
この"correct"と"wonderful"の違いが、「射る」と「得る」のニュアンスの違いなのではないかと思います。
「得る」には「捉える」とか「仕留める」とか「見切る」などという感覚的な意味も含まれるので、これが単なる誤訳であると切り捨てるには不自然なほど、「的を射(得)る」の肝の部分の「うまく」というニュアンスに合致しているのです。
追記。
文脈にもよりますが、「獲物を射る」だと既に当たったようにもまだ当たっていないようにも受け取れるので、誤解を招く可能性がありますね。
「的を射る」のような慣用表現であれば、言葉の意味を知る人なら既に当たったと受け取ってくれるでしょうけど、文章の中の一文節として「獲物をgetした」ことを表現したいのであれば、あまり妥当な言葉の選択とは言えないと思います。
通常は「獲物を得る」(はあまり使わない言い回しなのでこの場合は「獲物を捕らえる」とか「獲物を仕留める」)を使うでしょう。
上手く言えませんが、この「言葉単体で見ると当たったのか当たってないのか分からない」というモヤモヤ感も「的を射る」という言葉の違和感に繋がっているのかも知れませんね。
蛇足ですが「的は射るものであって得るものではない」というのは単に「得る」という言葉の意味を知らない人の詭弁なので論外です。
「得る」の対象が「的」であれば、当然「捉える」「仕留める」の意だと理解きる筈です(単に「得る」だけだと文脈頼みになってしまいますが)。
あのさ、意味じゃなくて語源を論じたら?
いいこと思いついた。お前、「スライム国のおへや 的を得る正当論を滅ぼすためのブログ」で検索しろ。
スライム国のおへや的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ
語源を論じても仮に結論が出たとして、それは語源に関する結論になります。
言葉の意味の話をするなら、意味について論じましょう。
鵠(くぐい)は白鳥の意
正鵠は「露的」
(中心が白で交互に黒、白、黒と円を重ねた的)
の中心を、白い鳥である鵠に見立てて的の中心としたもの。
それが転じて物事の核心、要点と言った意味合いともなる。
明治に入って要領を得るなどの意味合いから
「正鵠を得る」
という言葉が生まれ、
昭和に入ってから正鵠に的の中心の意味合いがある事から
「正鵠を射る」
が生まれた。
「的を射る」は、その派生。
「的を得る」は「正鵠を得る」とは違い、要点、核心、と言った意味合いが「的」には存在しないため、
誤用としか言えない。
要点、核心、と言った意味合いが「的」には存在しますよ。
「的を射る」の「的」とはまさに、要点、核心の比喩です。
辞書でも「ねらい」「対象」を指す意味のことばでもあります。
「"対象(的)"を"的確に捉える(得る)"」でも問題ありませんよね。
そして何故派生を良しとしているかが不明です。派生と誤用(の定着)の違いが曖昧です。
誤用が定着し正しい意味で慣習的に使われるようになったからこそ、「派生」なのでは?
貴方の仰るように、「正鵠を射る」から「的を射る」が派生したのであれば、その過程において「的を射る」は誤用であったのではないでしょうか。
あるひ突然お上から「"的を射る"は"正鵠を射る"と同義とする」なんてお達しがあった訳ではないですよね。
的を得るの基の正鵠を得るの基の正鵠を失わずが誤訳だという論に、得る肯定派がまともな反論してこないんだよね。
いいこと思いついた。お前、「スライム国のおへや 的を得る正当論を滅ぼすためのブログ」で検索しろ。
スライム国のおへや的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ
ありがとうございます(≧∀≦)
これからもよろしくです!!!!!!
「辞書がこう言っているから」と言うのはあまりあてにしない方が良いですよ
辞書は言葉の使われ方によって、また編集者の考え方によって掲載や内容が微妙に違っています
最近多いのは「判る」「解る」「分かる」がどれも同意語(同義語?)として扱われているのですよね
なぜ全く意味の違う「分かる」が同意語とあして扱われる様になったかと言うと、
「現在よく使われていて、同意語として認識されているから」と言う内容の辞書編集者のコメントをわたしは見た事があります
つまりこれは「時代の流れで言葉は変わっていく」と言う事を表しているものです
今回の「的を得る」は、わたしは間違った物と考えています
狩りなどで的とされる動物等は射る・射貫く対象であり、「得る」のはその結果なのですから
言葉の誤用は漢字そのものが持つ意味をないがしろにし、「周りが使っているから」とそれがあたかも正解だと思い使っているうちに辞書なども「一般的に使われているから」と言う理由で掲載してしまう
これが誤用が正当化される流れなのではないかと思うのです
美しい日本語を語るのであれば、辞書などのあやふやな掲載に振り回されるのではなく、漢字や言葉のもつ本来の意味を把握した上で考え頂きたいと思います
「得る」には「手に入れる」の意の他に「仕留める」「理解する」「悟る」等といった「(その物事に対して)自分の思い通りにする」というような意味があります。
その代表格とも言える言葉が「得たり(や)応」。
よって「得る」は的に対してできる極自然なアクションの一つです。
あなたは、漢字や言葉のもつ本来の意味を把握していないと言えます。
「得る」という言葉の持つ本来の意味を正しく把握して下さい。
この記事に「的を得る」はよく聞くが「的を射る」は噛みそうになるし聞かないって書いてるけど、口語で話してるときの「まとをえる」は「当を得る」のことなんだから、「的を得る」って色んな人が言ってるってのは完全な誤解でしょ。
BIFFは三省堂第7版のみを聖書のように崇拝してて、間違いの指摘は無視したり削除してる逃げるだけだし、メディアでも的を得るは使われないから的を得るは市民権を現状では得てないね。
>口語で話してるときの「まとをえる」は「当を得る」のことなんだから、
そんな根拠はどこにもありませんよ。
そもそも「的を得る」は「的を射る」と「当を得る」を混同したものであるという根拠もありませんし、「的を得る」は「見事に」「完璧に」「その通り」というような間投詞的要素を含むのに対し「当を得る」は合理的、論理的に正しい様を指すもので、言葉としてのニュアンスも違います。
そういった括りにおいては、直感的な言葉である「的を得る」に対し論理的な言葉である「当を得る」は対義にあるとも言えます。
読んでるうちに『的』がゲシュタルト崩壊したわ
コメ欄まで読んでこの話題はどちゃくそめんどくさいのに絡まれる可能性があるから「的を得るor射る」どちらも使わないことを誓った
やっぱどこにでもいるもんだね、ネットでしかイキれない哀れな人って(笑)まあスライムなんだったら知性も無いからしょうがないか(笑)