私の運営するYouTube「風花未来の詩心チャンネル」の視聴者さんから、ご質問があり、この村野四郎の「鹿」という詩を読み返しました。

 

さっそく引用してみましょう。

 

鹿

 

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

 

村野四郎のプロフィール

 

村野 四郎(むらの しろう)は、1901年(明治34年)10月7日に生まれ、1975年(昭和50年)3月2日に死去した日本の詩人である。

 

村野四郎の詩は、青春期に少し読んだことがあり、詩集も持っていたが、今は持っていない。つまり、傾倒したことがない詩人なのである。

 

新たに詩集を買い求めようとも思ったが、それはやめることにした。ネットで代表作を探せば、それでいい気がしたから。

 

村野四郎の詩で、今も愛され続けているのは、いわゆる現代詩と呼ばれる、実験的・概念的・難解な作品ではなく、わかりやすい詩であることが注目すべきである。

 

読み継がれ、語り継がれる詩は、例外なくシンプルな作品であろう。

 

「鹿」という詩について

 

「鹿」が登場する文学作品として私がすぐに想起したのは、スティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」である。

 

線路を渡ろうとした鹿が立ち止まってこちらを向き、主人公の少年と鹿の目と目が合うとうシーン。

 

このシーンが実に素晴らしくて、何度も読み返した記憶がある。

 

この「スタンド・バイ・ミー」の鹿が登場する場面と、村野四郎の「鹿」とを無意識のうちに比較していた。

 

私としては、圧倒的に「スタンド・バイ・ミー」の方を支持する。なぜなら、命の根源と根源が交信して、生きていることの素晴らしさを全身で感じられるのが「スタンド・バイ・ミー」だからだ。そして、ここには、未来への限りない夢と希望がある。

 

一方、村野四郎の「鹿」は?

 

希望は、ここにはない。あるのは、やがて訪れる「死」に対し、なす術もなく立ち尽くすことしかできない「絶望」だけだ。

 

ただ、「スタンド・バイ・ミー」と比較したために、村野四郎の「鹿」の主題が鮮明に見えた。

 

「鹿」は、戦争という無慈悲な、日常生活とはかけはなれた「暗黒」なしには鑑賞できないと私は感じた。

 

あえて戦争という言葉を使わないとしたら、「鹿」に例えられた、人々の日々の暮らしは、残酷な運命という外的に、いつ破壊されるかもわからない。

 

人々はその外的に対して、あまりにも無防備である、鉄砲に狙われても、逃げ出すことさえできない「鹿」のように。