山崎方代(やまざき ほうだい)の短歌をご紹介。

 

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

 

おかたみの二枚屏風も質流れは音なかりけり

 

欄外の人物として生きてきた 夏は酢蛸を召し上がれ

 

あさなさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている

 

残りゐる0.1の視力もてわが庭を眺む六年恋ひにしと

 

砲破片の無数に入れる脚をもてわが庭芝を踏みつづくなり

 

おそろしきこの夜の山崎方代を鏡の奥につき落とすべし

 

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る

 

寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり

 

ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村

 

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

 

私は死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう

 

手の平をかるくにぎってこつこつと石の心をたしかめにけり

 

一粒の卵のような一日をわがふところに温めている

 

柚子の実がさんらんと地を打って落つただそれだけのことなのよ

 

ゆえしらぬ涙は下る朝の日が茶碗の中のめしを照せる

 

明日のことは明日にまかそう己よりおそろしきものこの世にはなし

 

生れは甲州鶯(おう)宿(しゆく)峠(とうげ)に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

 

ふるさとの右(う)左(ば)口(ぐち)郷(むら)は骨壺の底にゆられてわがかえる村

 

卓(ちや)袱(ぶ)台(だい)の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり

 

寂しくてひとり笑えば卓(ちや)袱(ぶ)台(だい)の上の茶(ちや)碗(わん)が笑い出したり

 

あかあかとほほけてならぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ

 

ある朝の出来事でしたころぎがわが欠け茶碗とびこえゆけり

 

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

 

夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である

 

地上に夜が降りくればどうしても酒は飲まずにいられなくなる

 

死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう

 

山崎 方代(やまざき ほうだい)は、1914年(大正3年)11月1日に生まれ、1985年(昭和60年)8月19日)に死去した、日本の歌人。

 

人間臭い。

 

山頭火とか、尾崎放哉とか、無頼派的な歌人、俳人の短歌や俳句は好きで読んできてはいる。

 

しかし、私自身は、無頼派ではない。

 

臆病で、真面目一辺倒に近い生き方をしてきてしまった。

 

だから、人間臭くないかもしれない。

 

だから、私は魅力が薄いかもしれない。

 

山崎方代の短歌を読んで、このように感じる人は、私だけではないだろう。

 

一方、山崎方代の短歌は人間臭い。

 

ずうずうしいくらい、あっぱれなほど、自分を愛している。

 

自己愛の名人のような人だな、この人は、山崎方代という歌人は……。

 

人間臭く生きるとは、何と難しいことか。

 

普通人が心得なければいけないことは、無理をしてはいけないこと、無頼を気取ったところで、自分らしくなければ続かない。

 

大事なことは、本来の自分になることなのだが、やはり、これも難しい。

 

それにしても、人間臭い短歌は、真面目なワタシを解放してくれる力があることは、間違いなさそうである。

 

誠実に生きようとして人間臭さが薄まってしまった、かなり人として寂しいと自分で感じた時、山崎方代の短歌を読むと良いかもしれない。