これまで、原爆をテーマ(題材)とした映画を何作か紹介してまいりました。

 

今回ご紹介する映画「愛と死の記録」も、原爆がテーマとなっています。

 

私がこの「愛と死の記録」を見るのは、おそらくは2回目です。今回見直してみて、驚いたのは、自分がラストシーンを覚えていないことでした。

 

これほど衝撃的な結末を記憶していないのは、どうしたことか?

 

何十年以上も前に見たので、忘れてしまったのか。それとも……。

 

たぶん、いや、きっと、もう一人の私がラストシーンの記憶を消してしまったに違いありません。

 

「愛と死の記録(英称:The Heart of Hiroshima)」は1966年製作の日本映画。監督は蔵原惟繕(くらはらこれよし)。

 

主演は吉永小百合渡哲也。その他の主な出演者は、芦川いづみ、浜川智子、中尾彬など。

 

最初に鑑賞した時(おそらく私が三十代の頃)、それほど感動しませんでした。というか、私にとって歓迎すべき作品ではなかったのでしょう。

 

しかし、今回再び鑑賞してみて、私の中の評価は激変しました。

 

難病ものに分類される、純愛映画という枠をはるかに超えている。

 

これまで私が見た、いわゆる原爆映画の中では「原爆の子」が最高峰だと評価を確定していたのです。

 

「原爆の子」のレビューはこちらに

 

その評価は今日、覆(くつがえ)りました。

 

日本が生んだ、原爆を題材とした映画作品の頂点は「原爆の子」と「愛と死の記録」です。

 

なぜ、2作品に最高評価を確定したのか?

 

「原爆の子」は多面的に描いた人間群像ドラマであり、鎮魂歌です。「静」の名作。全編を流れる清らかな祈りは、精神的な美にまで達していた。

 

一方「愛と死の記録」は、光と闇が交錯する恋愛ドラマであり、天空に向けて真っ直ぐに歌い上げた叫びに似た怒りです。「動」の意欲作。

 

全く異なる作風を持つことから、あえて、「原爆の子」と「愛と死の記録」を頂点といたしました。

 

「愛と死の記録」で特筆すべきは、ストイックで格調ある演出の巧みさと、カメラアングルの大胆さです。

 

吉永小百合という女優を、可憐な花としてではなく、野生と呼びたくほどの生々しい生命体として描出した映画を他には知りません。

 

この「愛と死の記録」では、「陽の当たる場所」のエリザベス・テイラーに劣らぬ輝きを、吉永小百合は放っていました。

 

でも「愛と死の記録」が作品として「原爆の子」に劣っている点があります。

 

説明的な会話が多いこと、それと、ラストがバタバタし過ぎていて整理されていないこと、この2点が残念です。

 

たぶん、作品内でどうしても伝えたいことが多すぎたからでしょう。しかし、説明を省き、余韻を伝える方が作品としての質は高まります。

 

それでも、この「愛と死の記録」では、吉永小百合の(他の映画では味わえない)常軌を逸した凄みある演技と奇跡的な美しさが見られるので、いくつかの欠点を補って余りあります。

 

1966年という、エンターテインメントが全盛となる時代にあって、この「愛と死の記録」は、あまりにも貴重な成果であることを強調しておきたいのです。

 

(追伸)最も大事なことを書き忘れていました。以下、それを記します。

 

なぜ、この映画で監督は、もう一つの不幸を追加したのか?

 

※不幸の内容はネタバレになるため、ここでは書きません。

 

もう一つの不幸があってもなくても、作品としては成立します。

 

しかし、監督である蔵原惟繕は、希望を消し去り、絶望を強調した。

 

なぜか?

 

それは「怒り」。

 

最悪の結末を描くことで、蔵原監督は「原爆への怒り」をぶつけたのです。

 

原爆という悪魔を生み出した人間の罪に対する「怒り」。

 

原爆病に苦しむ人たちを救う治療法のことを全く考えずに、原爆投下した人間の愚かさに対する「怒り」。

 

その「怒り」を絶対化するためには、一点の希望も描いてはならなかったのです。

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