映画「戒厳令」は、1973年に公開された日本映画。
監督は吉田喜重(よしだよししげ)。
主演は三國連太郎。
二・二六事件により処刑された北一輝を軸に展開される。
が、しかし、この映画を見ても、北一輝がいかなる人物なのかは、まったくわからないだろう。
また、二・二六事件って、そもそもどんな事件で、結局、どうなったっけ?という基本事実も、まるで伝わらない。
それは、この映画「戒厳令」は、そういう基礎知識を伝えるつもりは、初めからないということだ。
この吉田喜重監督の映画「戒厳令」は、明確な思想とか、明文化できるメッセージを込めてはいない。
吉田喜重監督の大胆なカメラアングルが象徴しているのだが、この映画は歴史映画でなく、思想映画でもなく、映像による散文詩である。
ニュートラルな心理状態で、詩として鑑賞すれば良いと、私は思っている。
また、そういう鑑賞法しかないではないか、と感じざるを得ない映画だ。
吉田喜重節とも言える、大胆なカメラアングルには、独特の快感がある。
独自のアングルが、独自の映像空間、映像宇宙を生み出していて、言葉で説明できる概念を拒絶し、映像による絶対世界を確立しているかに見える。
それこそが、吉田喜重の映像哲学であり、詩学であり、美意識なのだ。
つまり、意味性と求めるのは、そもそも愚かなのである。
まあ、語りだすとキリがないが、要するに、映像による散文詩、叙事詩であり叙情詩なのだ。
私としては、独特のアングルが生み出し快感が得られるかぎり、吉田喜重監督の映画を見続けるであろう。