丸山薫の「北の春」というをご紹介します。

 

北の春

 

どうだろう

この沢鳴りの音は

山々の雪をあつめて

轟々と谷にあふれて流れくだる

この凄(すさま)じい水音は

緩みかけた雪の下から

一つ一つ木の枝がはね起きる

それらは固い芽の珠をつけ

不敵な鞭(むち)のように

人の額を打つ

やがて 山裾(やますそ)の林はうっすらと

緑いろに色付くだろう

その中に 早くも

辛夷(こぶし)の白い花もひらくだろう

 

朝早く授業の始めに

一人の女の子が手を挙げた

――先生 燕がきました

 

この詩を読んで、ふと「水汲み」という詩を想い出しました。

 

「水汲み」は大東亜戦争で亡くなった若者が、中国大陸で書いた詩です。

 

田辺利宏の詩「水汲み」

 

「北の春」も「水汲み」も、無条件の生命肯定、自然賛歌をうたいあげています。

 

しかし、「水汲み」を読む時、作者が戦没したという知識があるので、生命の歓びを、どうしても「死」と対比してしまいます。

 

対比することで、より鮮明な生命の輝きを感じるとれるのです。

 

では、「北の春」はどうか。

 

そこには「死」の影はありません。生命の輝きには、一点の曇りもありません。

 

詩の最終行は極めて大事なのですが、丸山薫は以下のように最後の連を描いています。

 

朝早く授業の始めに

一人の女の子が手を挙げた

――先生 燕がきました

 

女の子が「燕がきました」と、うれしい気持ちを無邪気に表白するエンディング。

 

この終え方こそが、この「北の春」の生命エネルギーが無限であることを、明るく告げているのです。

 

春が来た、そして来年も、再来年も、厳しい冬の次には春が来る。

 

時は流れるのではなく、巡るのである。季節も、永久に回帰し続ける。

 

たくましい自然の生命力を、技巧に走らず、まっすぐに描出したところに、この詩「北の春」の真の価値があるのだと思います。