金子みすゞの「さよなら」というをご紹介します。

 

さよなら

 

降りる子は海に、

乗る子は山に。

 

船はさんばしに、

さんばしは船に。

 

鐘の音は鐘に、

けむりは町に。

 

町は昼間に、

夕日は空に。

 

私もしましょ、

さよならしましょ。

 

きょうの私に
さよならしましょ。

 

金子みすゞは「視点移動」の魔術師である。

 

極めて技巧的な詩。実験的と言ってもかまいません。

 

どこが、技巧的で実験的か?

 

それは「視点移動」。

 

私は「詩心回帰」という活動をしていますが、そこで最も強く主張していることの一つに「視点移動」があります。

 

自由自在に「視点」を移動できるようにならないと、物事の真実は見えてこないし、他者とのコミュニケーションにおいて、分断を回避し、より豊かな未来プランを生み出すことは難しいのです。

 

一般の人たちのほとんどは、この「視点移動」が苦手なのです。

 

いろんな角度から見る、角度を変えると、見える像がまるで違う、その驚きの素晴らしさを知ってほしいと切に願って、私は「詩心回帰」を続けています。

 

視点移動の能力を含む「詩心の7つの美点」とは?

 

で、金子みすずの詩に戻りましょう。

 

「さよなら」は、「視点移動」のエクササイズ(練習)のような詩です、最初の連から最後の連まで、視点を動かしまくっています(苦笑)。

 

ここまで「視点移動」にこだわらなくてもいいのに、と思うほどです。

 

では、第1連から、金子みすゞが、どのように「視点」を動かしているかを見てゆきましょう。

 

降りる子は海に、

乗る子は山に。

 

船から降りる子供は海に「さよなら」し、船に乗る子供は山に「さよなら」する……つまり、船から降りる子と乗る子、2つの視点があり、その視点は、逆の方向に向けられているのです。

 

この場合、作者である金子みすゞ自身の視点は、船から降りる子供と乗る子とともに移動するので、金子みすゞは、逆方向に視点を動かしてることになります。

 

登場するものは必ず複数であり、必ず動いている(変化している)ことに注目。要するに、連の中には必ず複数の「視点」があり、必ずその「視点」が動いているということです。

 

船はさんばしに、

さんばしは船に。

 

ここで登場するのは、さんばしの視点と船の視点。ここでは、金子みすゞは、さんばしの視点になり、また船の視点となるというふうに、視点を移動させます。

 

鐘の音は鐘に、

けむりは町に。

 

ここでは、鐘の音、鐘、けむり、町が出てきて、「鐘の音」と「けむり」の2つの視点から、遠ざかってゆく対象である「鐘」と「町」に「さよなら」します。

 

町は昼間に、

夕日は空に。

 

登場する視点は「町」と「夕日」の2つ。

 

昼間は夕方になることで町から遠ざかってゆくから、町(金子みすゞ)は、昼間に「さよなら」し、夕日は日暮れることで闇に消えるので、夕空に「さよなら」します。

 

私もしましょ、

さよならしましょ。

 

きょうの私に
さよならしましょ。

 

ここで登場する視点は「きょうの私」と「きょうの私を見ている、あしたの私になろうとしている私」の2つ。

 

この最後の2連でも「視点」は動いています。「きょう」という日は「あした」になろうとして「きょうの私」から遠ざかってゆきます。

 

だから、今日から遠ざかってゆく私は「きょうの私」に「さよなら」するのです。

 

いかがでしょうか? 限界まで「視点」を動かし、どのような詩宇宙を生み出せるかを、またいかなるドラマを創出できるかを、大胆に実験し、挑戦しているかに見えますよね。

 

詩の技巧に関しては、金子みすゞは、勇敢なる挑戦者であり、怖れを知らぬ冒険家なのです。

 

金子みすゞは「擬人法」の魔術師でもある。

 

この「視点移動」とともに、金子みすゞの詩の技法で際立っているのが「擬人法」です。

 

出てくるものは、ほぼ例外なく、人間と同じような感情を持ち、行動するものとして描かれています。

 

ですから、詩を読む私たちも、詩の中に登場するもの、一つひとつに感情移入しやすくなるわけです。

 

「技巧オタク」「大胆な技巧派」という側面もまた、魅力的な金子みすゞ

 

このように、金子みすゞには「視点オタク」「擬人オタク」といった側面があります。

 

これでもかとばかりに、技巧に凝るので、「技巧オタク」と呼んでもいいでしょう。

 

こうした「大胆な技巧派」という一面からも、金子みすゞの詩を見ると、新たな発見が期待でき、どきどきしてきて、感想文を書くのも楽しさを増すのです。

 

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