今回取り上げる山村暮鳥は「風景」と題される作品です。後半では山村暮鳥のプロフィールと「雲」という詩についてもご紹介します。

 

いちめんなのはな」という表現があまりにも印象的な「風景」という詩、その一部を引用してみましょう。

 

 

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

 

 

菜の花畑が視界いっぱいに広がっている風景が鮮明に想い浮かびますよね。

 

そして8行目の「かすかなるむぎぶえ」が実によく効いています。「いちめんのなのはな」は視覚に訴えてきますが、一方「かすかなるむぎぶえ」は聴覚を震わせ、風景への臨場感を強化してくれます。

 

この詩は、実は、次に2つの連があり、合計3連で構成されています。詩の題名ですが「風景」というメインタイトルに「純銀モザイク」というサブタイトルがついているのです。

 

この「純銀モザイク」という副題と、2連、3連は、意識する必要がない。というか、むしろ、あえて積極的に無視した方が、山村暮鳥「の風景」という詩に対する感動を純粋化できると私は考えています。

 

1連目だけ充分に感動できますし、イメージの広がりも、1連目だけの方がより大きいのです。

 

また、立原道造の詩「はじめてのものに」も、第一連だけで充分だと私は感じています。

 

⇒ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした~立原道造「はじめてのものに」より

 

詩のタイトルも「風景」ではなくて「いちめんのはなのは」と覚えておけば良いのではないでしょうか。

 

室生犀星の代表作である「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる詩も、「小景異情(その二)」という正式名称で覚えている人は少ないと思います。「ふるさとは遠きにありて」の詩と記憶しておいて何ら問題はありません。

 

⇒室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」にいてはこちらへ

 

同様に山村暮鳥の「風景」も「いちめんのなのはな」と覚えておけば充分であると、私は信じています。

 

といいつつも、「風景」の全文も引用しておきましょう。

 

風景

純銀モザイク

 

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

 

インターネットの情報、また私が持っている詩に関する資料を全部読んだのですが、研究者の解釈が、2点において別れ、紛糾しているのです。

 

純銀モザイク」という副題、また、3連目の8行目の「やめるはひるのつき」の意味と効果について、解説文は多くの文字を費やしています。

 

しかし、その解釈を読めば読むほど、最初に読んだ時の感動が色あせてゆくのでした。

 

正直、山村暮鳥は、詩のタイトルの付け方は、巧みではありません。むしろ、稚拙な面があると言わざるをえません。

 

ですから、「純銀モザイク」という言葉を深読みすると、袋小路に入りかねないと私は直感しました。「菜の花」は黄色であって、その黄色一色で充分。あえて「純銀モザイク」という言葉で複雑化する必要はないでしょう。

 

また「やめるはひるのつき」は、山村暮鳥が抱える「闇」の部分の象徴とも思えますが、そうした追加イメージ(絵画性、陽に対する陰のイメージ)は、この詩の作品レベルを上げるよりも、この詩全体のパワーを弱めてしまうと思います。

 

そのため、思い切って、2連、3練は無視し、1連だけを味わう方が、この詩に夾雑物が入らないし、冗長さも回避できるので、その感動を純粋化、永遠化しやすくなると私は結論づけたいのです。

 

もちろん、この考え方はあくまで私の主観であり、他人に強要できるものではないと承知はしているのですが……。

 

山村暮鳥のプロフィールと「雲」という詩について

 

山村暮鳥というと、すぐ想うのが「」という牧歌的な詩です。

 

さっそく、引用してみましょう。

 

 

 

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平いはきたひらの方までゆくんか

 

「いういうと」は「悠々と」の意味です。

 

呆気にとられるほどの牧歌性ですが、時代がますますせちがらくなってきているので、こうした詩空間には現代人が忘れている開放感があり、貴重だと感じます。

 

では、山村暮鳥の一生も、牧歌的と言えるような明るく平穏なものだったのでしょうか。

 

詩の解説では定評のある吉田精一分銅惇作が編纂した 「近代詩鑑賞辞典」で、山村暮鳥の生涯について調べてみることにします。

 

 

山村暮鳥は明治十七(1884年)に生まれ、大正十三(1924年)に没しました。

 

複雑な家庭に生まれ、幼少から苦労が多かったようです。16歳で小学校の代用教員となり、英語を学ぶかたわらキリスト教に接近。キリスト教会の形式主義と自身の文学的欲求に苦悩します。

 

大正四年に刊行した「聖三稜玻璃」の難解な象徴詩風は嘲笑によって迎えられてしまいました。

 

文学的な懊悩、健康の不安などから、ドストエフスキーに傾倒。やがて、白樺派などの人道主義にひかれて転身。

 

以降は、自然礼賛、人間愛を明るく簡潔に歌うという作風に徹してゆきました。

 

このように、山村暮鳥の生涯は決して平板なものではなく、暗たんたる世界、多くの苦悩を経て、牧歌的な世界に至ったのです。

 

そうした山村暮鳥の明と暗、光と闇を知った方が、「雲」に代表される、明るく人生肯定的な詩に、より確かな価値を見出せます。