立原道造(たちはらみちぞう)の「はじめてのものに」というを読み返して、今日は半日、この詩のことだけを考えておりました。

 

特に「ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした」から始まる第一連は素晴らしいので、そのことを中心に語りたいと思います。

 

さっそく、全文を引用してみましょう。

 

はじめてのものに

 

ささやかな地異は そのかたみに

灰を降らした この村に ひとしきり

灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

その夜 月は明かつたが 私はひとと

窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)

部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

 

――人の心を知ることは……人の心とは……

私は そのひとが蛾(が)を追ふ手つきを あれは蛾を

把(つかま)へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか

火の山の物語と……また幾夜さかは 果(はた)して夢に

その夜習つたエリーザベトの物語を織(お)つた

 

「はじめてのものに」は、以前このブログでご紹介した「のちのおもひに」とともに、立原道造の詩の中で最も有名な作品です。

 

有名というのは評論家などに取り上げられる機会が多い、というくらいの意味です。

 

「はじめてのものに」は、立原道造の第一詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」(風信子叢書)の巻頭に載っています。

 

簡単に注釈を加えておきましょう。

 

●「ささやかな地異」は、浅間山の噴火。
●「ひと」は女性。
●「エリザベート」は、吉田精一は「シュトルムT.Storm1817-87の傑作『みずうみ』の女主人公であろう。素朴で、純粋で、美しくはかない抒情詩的な短篇である」と述べている。

 

あくまで私の主観ですが、第一連の「ささやかな地異は」から「降りしきった」までが圧倒的に優れていると思います。

 

もちろん、その続きからラストまでも、しっかり読ませてくれるのですが、第一連によってこの詩「はじめてのものに」は「のちのおもひに」とともに、後世に伝えられる価値を持ったと感じるのは、私だけではないはずです。

 

極めて音楽的であり、流れとリズムが良いので、暗唱にも適しています。

 

詩によく詠われる「花」ではなく「灰」が降っていることが、この詩の生命線であり、はかなく哀しく美しい調べを、いっそう際立てていると感じました。

 

誰でも、心の中に弦を抱いていると思うのですが、この「はじめてのものに」はナイーブな手で心の奥に隠された弦をさり気なくはじかれてしまいます。

 

2~4連は存在しなくても良いくらいだなどとと申しますと、山村暮鳥の「いちめんのなのはな」室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で読者の方に叱られたように、今回も怒られるかもしれません。

 

立原道造の詩はソネット形式で書かれていので、あくまで14行全体で評価すべきだと言われるかもしれません。

 

そういうことは承知の上で、あえて「はじめてのものに」第一連は素晴らし過ぎるので、これだけでも充分過ぎるくらいだと申し上げたいのであります。

 

もう一度、その第一連を引用してみましょう。

 

 

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

 

立原道造は歌う詩人ではなく、構築する詩人であるせいか、暗唱しやすい作品は少ないのです。

 

かつてこのブログでも取り上げた「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に」で始まる「のちのおもひに」は、私は今も暗唱できます。

 

でも、その他の詩で暗唱しているのは「はじめてのものに」の第一連だけなのです。

 

第一連の素晴らしさは、暗唱したくなるほど、音韻的に優れていることだけではありません。

 

イメージの広がりと、暗示性においても秀逸であります。

 

2連目からは、現実の状況が披瀝されるわけですが、現実的な理解は深まりますが、それによって詩世界が限定されすぎてしまします。

 

それが第一連だけですと、読者の思うがままに想像の翼を広げることができ、「地異」「灰」「かたみ」「哀しい追憶」といった言葉から、自分なりの物語を作り出しつつ、詩の音律に酔いしれることもできるのです。

 

次回は、違う視点から「はじめてのものに」について語る予定でおります。その時には、立原道造について三好達治堀辰雄が語った言葉もご紹介する予定です。