最近、二十代の時に読んだ、日本の近代詩のことがしきりと思われてなりません。深まりゆく季節のせいなのか、それとも他に深い理由でもあるだろうか、と独り首をかしげる私です。

 

そんなわけで、今回は日本の抒情詩の名作をご紹介することにしましょう。

 

日本の抒情詩の中で、もっとも感傷的で、美しいのが、立原道造の「のちのおもひに」だと私は思っています。

 

【動画】(朗読)立原道造「のちのおもひに」

 

さっそく、引用してみましょう。

のちのおもひに

 

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

水引草に風が立ち

草ひばりのうたひやまない

しづまりかへつた午さがりの林道を

 

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた

──そして私は

見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

だれもきいてゐないと知りながら

語りつづけた……

 

夢は そのさきには もうゆかない

なにもかも 忘れ果てようとおもひ

忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

 

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう

そして それは戸をあけて 寂寥のなかに

星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 

立原道造の詩「のちのおもひに」の朗読はこちらに

 

立原道造の詩には、二十代の前半の頃、親しみました。立原道造の詩は好きだったのですが、同時に物足りなさを覚え、他の近代詩人である、中原中也や八木重吉の方に強く惹かれてゆきました。

 

立原の詩には、高村光太郎や宮沢賢治の詩にあるような「求道性」はありませんね。八木重吉のように「祈る」詩人でもなかったし、中原中也のような「毒の分泌」もありはしなかった。

 

では、立原の詩には何があるのでしょうか?

 

今回読み返してみて、強烈なテーマとかがないところが、立原道造の詩の魅力だと思い当たりました。

 

何か、思想なり、詩学なり、人生観なりを、表白することは、立原にとっては「野暮」でしかなかったのではないでしょうか。

 

あらゆる「意味性」から逃れ、徹底した「透明な抒情性」を、精緻なソネット形式に定着させることにしか、立原道造は興味を覚えなかったのだと思います。

 

立原が愛するのは、もろく、はかなく、消えやすいものだけであり、愛さえも、強固であってはならないのです。

 

「ただ感傷的である」とか「綺麗なだけだ」とか、そういう指摘は通常は非難でしかありません。そこには少なからず軽蔑の念が込められているもの。

 

でも、まさに「意味のない感傷」や「ただ綺麗なだけの世界」に憧れ、それを、感傷や感性よりも、理知的に構築したのが、立原道造という詩人だと私は感じています。

 

表現された世界はこの上もなく感傷的で美しいけれども、その技巧はあくまで理知的であったのです。