大関松三郎とその詩「夕日」については、以前、私のこのブログでご紹介したことがあります。
大関松三郎のプロフィールなどについては、その記事をご覧ください。
で、今回ご紹介するのは、大関松三郎の「虫けら」という詩です。
さっそく引用してみましょう。
虫けら
一くわ
どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれていて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで たちまち大さわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえらは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは おまえたちの 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える
だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや
八方破れの語り口なのに、すとんと腑に落ちる、完成された詩文学
詩の世界に限らず、「これはマネできない」というしかない、完全オリジナルな表現というものがあるでしょう。
この「虫けら」も、大関松三郎にしか書けない詩である、などという陳腐なことしか言い出せない自分を今、持て余しているのです。
このもの凄いパワーは、どこから来るんだろうか?
詩の重大なテーマの一つに「気づき」があります。
大関松三郎は「虫けら」という詩で、私たち一般人は、思わず、のけぞってしまう、度肝を抜かれてしまう、超ど級の「気づき」を与えられてしまう。
大関松三郎の「気づき」を与える手法は、洗練などとは無縁な、巨大な土の塊を心臓に向かって、ぶん投げてくる……怖ろしく無造作だ。
天真爛漫、天衣無縫、型というものを持たない、粗削りな手つきだからこそ、私たちも無防備に、警戒心を抱く暇もなく、大関松三郎の真っ正直な心情の吐露を、そのままに受け入れざるを得ない。
しかし、実は、詩の修辞学という観点から評価しますと、大関松三郎の「虫けら」は、完成度がたいへん高いのです。
「おまえは」と「おれは」を連続して、畳みかけ、次の二行の後に一行を空ける。
おれは こまった
おれは くわをたてて考える
この一行空けが実に利いていて、次の連を際立させているのです。
だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや
いかがでしょうか?
テーマは「命とはこういうものだ」に尽きる。
詩のテーマですが、「命とはこういうものだ」としか言いようがありません。
昨今「命の尊厳」とか「命の選別」とか、後付けの概念語がしばしば使われ、逆の命を正常に感じることが難しくなっています。
「人権擁護」「命の尊厳」などという言葉を発すれば、「命」が重んじられるわけではありません。
そんなことより、日々を自分らしく、人らしく生きることの方が、はるかに大事です。
命とは、時に残酷であり、非情なものである。命とは決して常に洗練された崇高なものではなく、命とはある意味「どさくさまぎれ」のものであり、時には無様で不格好なものである、限界や矛盾だらけだけど、愛おしいもの、それが命というものではないか。
お題目みたいな概念語、イデオロギー用語を羅列することは、人を本来の命の輝きから遠ざける危険性が高いので、使うべきではない、というのが基本姿勢です。
一方、この大関松三郎の「虫けら」は、まさに「命の本質」を生き生きと体感させてくれます。
大関松三郎は「命」について、全身全霊、愛情を込めて語っている。だからこそ、過酷な命の宿命さえも、あるがままにそのままに受け入れられるのです。
大関松三郎の「虫けら」は、後世に伝えるべき傑作
こうして見てくると、大関松三郎の「虫けら」は、後世に語り継ぐべき、傑作中の傑作であることが判明します。
したがって、私は「語り継ぎたい日本の名作詩100選」の中に、この大関松三郎の「虫けら」を加えることにしました。
最後に、付言しておきます。
大関松三郎は「虫けら」を小学六年生の時に書いたそうです。
よくわからん
感受性が豊かですね。
60年程前、多分中学の教科書にあったと記憶している。大関松三郎の名前と純度の高い強烈な詩文の印象がが記憶の底にしっかりと残っている。そんなに若いひとだったとは!