今日は令和元年の初日。
私の住んでいる埼玉は、あいにく雨です。
そこで、今回は、八木重吉の「雨」という詩をご紹介しましょう。
では、さっそく、八木重吉の詩「雨」の全文を引用いたします。
雨
雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでいこう
いかがでしょうか?
これで全部です。
あまりにも短いと思うでしょうか。
しかし、八木重吉には、4行程度で終わる詩が少なくありません。
高村光太郎は八木重吉の詩について「一切の中間的念慮を払ひのける事ができた」「独特の至妙な徹底境」と述べています。
八木重吉は俳句とは全く異なる方法で、詩を限界まで短くした詩人だとも言えるでしょう。
短く、一見、何の変哲もない言い回しのようにもとれますが、心を澄まして読むと、心の耳を澄まし、心の眼で見つめますと、「雨」という詩の深さに驚かざるを得ません。
何気ない2行に続き、詩は急激に八木的世界に突入。
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
これが凄いですね。「世」以外をひらがなにししてくれているので、現実から精神的な世界に、すんなりと読者も移行できるのです。
雨の音のように世の中のために働く、という言葉のつなげ方は極めて唐突ですが、八木的世界では、この言葉の流れが必然であり、自然となるので不思議です。
意外な言葉のつながりに、思わずハッとして、深い精神的世界にすっと誘い込まれてしまいます。
雨があがるようにしずかに死んでいこう
八木独自の言葉回しは、ここに極まります。
「雨があがる」と「死」は、普通は結び付きません。しかし、八木は神に導かれるかのように、すうっと音もなく「雨があがること」と「死ぬこと」をつないでしまう。
ここでも読者は、意外な言葉のつながりによって、純粋で深い気づきを得られるのです。
八木重吉の詩から、私たちはなぜ感動できるのか。言葉の技巧、修辞学というったものからではなく、八木重吉の生きざまから、テクニックとは無関係に、言葉が湧き水のように生み出されているので、私たちは八木重吉の詩に深い感銘が得られるのです。
現代詩は、難解で技巧に走り過ぎたと批判されることがあります。確かにそのとおりですが、実は現代詩人が忘れてしまった、あるいは、あえて回避したことがあります。
詩は詩人の生き方が魅力にあふれていれば、技巧などほとんど必要ありません。いや、むしろ、テクニックは排除すべきであり、限りなくシンプルにした方が読者に思いは届きやすいのです。
この単純明白な真実から逃げ続けたために、現代詩人の多くは袋小路に入ってしまったと言えるでしょう。
令和元年の初日の朝は雨だったので、八木重吉の「雨」という詩をご紹介したのですが、この記事を書き終えた瞬間に、陽が指してきました。
真っ白なまぶしいほどの光です。
この急激な変化は、「吉兆」以外の何ものでもないと強く感じています。
どうか「令和」が、希望に満ちた時代となりますように……。