少年少女の頃は、皆が天才というか、神の部分を色濃く持っているように感じます。
今は完全に凡人と化してしまった私ですが、幼い頃は、これでも感受性はかなり鋭かった、というか濁っていなかった。
7歳か、8歳くらい、10歳にはなっていなかったと想います。
夕暮れ時で、空が少し暗くなりかけていました。
何気なしに空を見上げた私は、眼を見開きました。
私の真上を、鳥たちが音もなく渡ってゆくのです。
何という名の鳥なのだろう。あれが雁と呼ばれる鳥なのだろうか。
その時の私が感じえたのは、怖ろしく遠い空を飛翔している鳥なのに、その形がクッキリと見えたこと。
10羽ほどの鳥の群れが、およそ形という形の中で、最も美しい形を成して渡ってゆくのが見えたこと。
そして、世界はその時、音が消え、まったき静寂であったことだけでした。
本当に不思議です。遠いとおい昔のことなのに、あの静けさを、最近はしばしば想い出す。
想うに、あの時の私は、よくあのまま昇天してしまわなかったものです。
それほど、幼い魂は、清らかに美へ吸引されていた。
ひょっとすると、私の魂だけは、あの時、確かに昇天したのかもしれない、そんな気さえしてきます。
鳥たちが雁行飛行する様は、テレビなどで見て知ってはいたけれど、実際にこの眼で見たのは、あれが最初で最後のような気がします。
しかし、それにしても、私の頭上、ほぼ真上を渡って行った鳥たちは、現実の鳥たちだったのか、それとも、神的な存在が、私に至高の美を垣間見させたのか……。
なぜこんなことを語っているのか、私自身、判然としないのですが、おそらくは、感覚の純度をやはり常に高めておかないと、せっかくの人生だから、もったいないと感じているからだと思います。
人は弱いもので、自分のレベルでしか、他者を判断できない。
例えば、独りの少年が雨の中、傘もささないで立ち尽くしているのを見たとします。
(何だ、この子は、コンビニで傘を買う金もないのか。親は貧乏なのか、失業中なのかしらないが、どうせ、一流の中学には行けないだろうし、この子の人生は前途多難だな。まったく見ているだけで、こっちまで陰気になりそうだ)
(一体何が、この子には起きているんだろうか。ハッとさせられたのは、その瞳だ。足早に下校していゆく小学生たちにはない、独特の光がその少年の瞳にはある。私は待ち合わせの時間をずらし、その子を家まで送ってゆくことにした)
上と下、この2つの反応には、天地雲泥の差がありますよね。
「風景とは魂の状態である」とルソーは言っていますが、人でも、風景でも、作品でも、すべてが、自分自身を映す鏡でしかないんですよね。
自分の気持ちが荒んでいたり、何でもかんでも自分以外ののもを貶めたいとか想っていたら、絶対にどんな素晴らしいものでも、その美しい正体を、あなたの前にさらけ出してくれることはないでしょう。
たった一度の人生だから、感覚の純度を高め、瞬間しゅんかんを、より豊かに呼吸してゆきたいものです。