われ以外みなわが師」は、もともとは「我以外皆我師」と書きます。

 

われいがいみなわがし」と読むのです。

 

これは、小説「宮本武蔵」で有名な作家の吉川英治の言葉です。「我以外皆我師也」また「吾以外皆吾師」と書かれる場合も。

 

吉川英治の造語、即ちオリジナルワードです。宮本武蔵の「五輪書」にある言葉だとも言われますが、それは勘違いのようです。宮本武蔵は「五輪書」において「万事において我に師匠なし」と書いています。

 

吉川英治が好んで書かれた言葉に「我以外皆我師」と「生涯一書生」があります。私は両方とも好きで、真っ先に思い浮かぶ人生訓となっているのです。

 

さて「われ以外みなわが師」の意味を、確認してみましょう。

吉川英治の名作「新書太閤記」に、以下の一節があります。

 

秀吉は、卑賤に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時(ねんじ)などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。

 

だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下(ぼんげ)な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。

 

――我れ以外みな我が師也

 

と、しているのだった。

 

ご説明するまでもなく、「われ以外みなわが師」は「自分以外のものはすべて私の師である」という意味です。

 

確かに、心がけ次第で、自分以外の人たち、すべてから、何かしらのことを学べると、私も最近になって痛感しています。

 

例えば、長期間、入院しますと、ふだん気にもかけなかったことが、ありありと見えてくる時があるのですね。

 

病院でひたむきに働くスタッフの素晴らしさ。重篤な病とたたかう患者の精神力。また、人だけでなく、病院の敷地内に咲く、季節の花の美しさにも、心打たれることがあります。

 

病気をした時には、ふだん見えなかった人々の神々しさが手に取るようにわかる。これは当然です。しかし、心がけによっては、日常生活においても、日々逢う人たちからも、学ぶことが多いことに気づくのです。

 

そう考えますと、澄み切った青空、さんさんと降り注ぐ陽光、さわやかに吹きぬける風、そして路傍の石からも、学べる気がしてきます。

 

生きとし生けるもの、そのすべてを慈しんだ吉川英治だからこそ、生み出し得た言葉、それが「われ以外みなわが師」だと思うのです。