この日本という国に、金子みすゞが生まれて、素晴らし詩を書いてくれたことに、「ありがとう」とお礼を言いたい気持ちです。
金子みすゞは、いま最も人気の高い詩人の一人です。
インターネットの検索数を調べると、1位が中原中也で、たぶん2位が金子みすゞではないでしょうか。
人気度だけで、詩人を評価したいとは思いません。ただ、現代人がいま最も求めていることを表現している詩人の中に、金子みすゞが入っていることは間違いありません。
では、金子みすゞが多くの日本人に愛される理由について、考えてみましょう。
金子みすゞは「利他愛」の詩人?
「利他愛」を感じさせてくれる詩人だから、金子みすゞは多くの人に愛読されている、と私が言ったら、あなたはどのように反応しますか。
自己愛の反対語が利他愛。
すべての人間は利己的な面を持っています。文学者の夏目漱石は人間のエゴイズム(利己主義)を、小説「こころ」で追求しました。
現代人は「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方しかできなくなっているとは、よく言われることです。
「今だけ、金だけ、自分だけ」とは「刹那的で、お金しか信じられないで、自分のことだけで精いっぱい」という意味でしょう。この感覚は、もはや価値観でも生き方でもなく、「病い」であり、現代社会にまんえんする「心の貧困化」を示しているとも言えそうです。
そうした味気ない生活を強いられている現代人の心に、潤いを与えてくれるのが、金子みすゞの詩だと思われます。
「今のことだけにあくせくしていたら寂しすぎる。お金以外に大切なものがあるし、自分のことだけ考えてるんじゃなくて、他人を思いやる気持ちを持つと人生はずっと豊かになるんだよ」と面と向かってお説教されたら逆切れするかもしれませんが、金子みすゞの詩なら、素直に受け止める人が多いのではないでしょうか。
中原中也は「利己愛」の詩人?
金子みすゞに劣らない人気詩人がいます。それが、中原中也です。
日本近代詩人の中で人気ナンバーワンは中原中也でしょう。この人は、自己愛が強すぎるというか、自己欺瞞を許せない。利他の精神を詩で表出することはほぼありませんでした。
自分自身をとことん疑ってかかるという近代文学者の苦悩を、宿命的に背負っていたのだと思います。
中原中也の詩は、自己矛盾に苦しんだ者の切実な告白という要素が強烈であり、中原の詩から「利他愛」を感じ取れる人は、少ないでしょう。
もちろん、中原も他者を愛する気持ちは人一倍強かったに違いありません。
しかし、自己との葛藤にあえぎ続け、他者への愛を静かに表現する、心の余裕はなかったのです。
中也の魂の欲求は、あまりにも激しく、性急すぎた。
中原中也を自己中心的な人物だと批判したいのではありません。これは資質の問題だと私は思っています。
中原中也が単なる利己主義者であるなら、これほどまでに時代を超えて多くの人々に、愛され続けているはずがありません。
ただ、中原中也の詩を読んでいると、辛くなることが多く、安寧が得られることはほぼありません。
なぜか?
中原中也も「愛と苦悩の人」なのですが、苦悩が大きすぎるのです。
「詩心回帰」の中で私は「外なる世界と内なる世界をつなげて合一させる」という意味のことを書いています。
そうしないと、豊かな未来の創造は難しいと私は訴えているのです。
社会・政治問題(外なる世界/眼に見える世界)と、個人・心の問題(内なる世界/眼に見えない世界)をつなげるのを基本としているのが、私が提唱する「まどか学」なのです。
⇒独自の「まどか学」を伝授する風花まどか大学
中原中也の眼はあまりにも「内なる世界」に向けられすぎていました。ですから、中原の詩に社会性がないのは当然なのです。
小林秀雄は中原中也の詩の特徴として「叙事性の欠如」を指摘しています。
自分の内面ばかり見つめて葛藤し苦悩していれば、叙事性を失うのは当然です。
宮澤賢治は「愛」を銀河系まで…
もう一人の「愛と苦悩の詩人」である、宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と『農民芸術概論概要』で書いています。
「世界がぜんたい幸福」は「世界全体が幸福に」という意味ですね。
この有名な宮沢賢治の言葉から「利他愛」を連想する人は、多いのではないでしょうか。
さらに有名な詩「雨ニモマケズ」では、他者のために生きたいと願う、利他の精神がつづられているともとれます。
⇒「雨ニモマケズ」の全文と鑑賞はこちらに
不思議なのは、私は私自身が詩作にのめりこんでいた二十代の頃は、この「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉には欺瞞があるのではないか、と否定的にとられていたのです。
なぜ、素直に受け入れられなかったのか。
人は誰もがエゴイストであり、極限状況では、自分の命を守ることが精いっぱいで、他者を殺してでも自分が生き延びようとするだろう。だから、宮沢賢治の言葉はきれいごとではないか、と当時の私は思い込んでいたのでしょう。
ところが、世の辛酸をなめつつ歳を重ねてきた今現在は、逆に宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、自己愛か利他愛かという次元から発していないことに、異なる視点から「個人」と「世界全体」を対比させたことに、ようやく気づき、なるほどと納得するようになってきているのです。
そもそも「愛」は「利己」と「利他」の2つにだけ分けて考えるものではありません。異なる次元の「大きな愛」もあります。実は、この「大きな愛」こそが私たち現代人には必要なのではないでしょうか。
宮沢賢治の先ほどの言葉が書かれた『農民芸術概論概要』を、もう少し長く引用してみましょう。
続きを読む