今回は中原中也の「正午」という詩を取り上げます。

 

汚れっちまった悲しみに……

 

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

 

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

 

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

 

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 

この「汚れちまった悲しみに……」は、中原中也の詩の中で最も有名な作品の一つである。

 

五七調のリズムが自嘲的でアンニュイを生み出し、俗っぽさも含めて、多くの人に「中原中也節」として親しまれてきたからだろう。

 

私としては、もはや、中也の嘆き節が醸し出す「倦怠感」を愛せない状態となっている。

 

このようなぶっきらぼうで、愚直で、希望のない抒情歌を歌った詩人に、青春期に没頭した時期が私にもあった。

 

しかし、令和の年代を生きる人たちには「汚れちまった悲しみに」は、受け入れがたいのではないか。

 

自嘲とか、デカダンスは、時代にパワーがあったこと、その時代に生きる人の内部にも、意識を超えたマグマのようなエネルギーがあったことを証明でもある。

 

力が衰えまくっている今、自嘲、そして自暴自棄に走ったら、死しかないだろう。

 

その意味で、中原中也の詩を、時代とそこに生きる人の中に、とてつもないパワーがあったことの証明として味わうことは、有意義だと私は思っている。