「しずもり」という言葉は、私(風花未来)の造語(オリジナルワード)です。
日本語には、ラ行五段活用の動詞「鎮もる」「静もる」の連用形である「鎮もり」「静もり」、あるいは連用形が名詞化したものがあります。
現在、日常生活において「しずもり」という言葉は使われておりませんし、私、風花未来が使う「しずもり」は上記の「静もり」「鎮もり」とは違う意味で使用するので、あえて私の造語だ主張する次第です。
それなのに、私の創作言葉である「しずもり」という言葉について、私は語らずにはおれません。
もちろん、そこには深い理由が、私にはあるのです。
「しずもり」は「静けさ」と「温もり」を合体させた創作言葉です。
なぜ、この「しずもり」という言葉をつくったかと申しますと、それが、自分でも判然としません(苦笑)。ただ、不思議なのは、この言葉を自分で作ったのは、かなり昔ことで、まだ20代でした。
人なつこく、社交的な一面があり、人に囲まれていると幸せを感じる私ですが、一方で、孤独癖があり、ひとりの世界に浸っていたい時もあるのです。
そうした私の性格を「しずもり」という言葉は如実にあらわしているのかもしれません。
静かで、温もりを感じる時は、一生のうちでも、そんなにたくさんあるわけではありません。
幼い頃、雨の昼下がり、ひとりで縁側にすわり、じっと雨脚を眺めていたことがありました。
あの時に、感じていた、静けさ、温もりが、まだ私の心の奥で息づいています。そのことについてはこちらで書きました⇒雨の匂い
あの時の私は、何と孤独だったのだろう。静けさの中で、かすかな温もりを覚え、何という豊かさに満たされていたことか。
ほのかだけれども、確かな充足が、そこにはありました。あの澄明な世界に、もう一度、浸り切ってみたい、その気持ちをおさえがたい時があります。
あの澄みきった豊かさのことを、私は「しずもり」という言葉でしか、言い表すことはできません。
「しずもり」には、「もののあはれ」や「無常」に近い意味が込められている。
この「しずもり」は、孤独であることの寂しさ、人恋しさ、遠い昔だけれでも、人の温もりを感じていた日々があり、その時への回帰を願う気持ち、またそれがかなわぬことだとという寂寥感を示しているのだと思います。
作家の多くは、魂に言い知れぬ虚無を抱いているものです。私は作家ではありませんが、そうした虚無を理解はできます。
虚無を知った魂が生み出す審美的世界にも心ひかれます。しかし、そうした虚無を精神的生活の根幹にすえて生きてゆこうとは思いません。
澄み切った、静かな世界を構築することは、やりがいのあることでしょう。しかし、他者を排除した絶対的な世界を創出したいとは思わないのです。
何よりも大事なことは、人らしくあること、そして、いつも世界とつながっていること。静かなだけではなく、そこには温もりがなければならない。温もりがあって、同時に静かでなければならない。
そうした、デリケートで壊れやすいけれど、限りなく人間らしい時空間がいとおしくてなりません。
私が自分のオリジナル表現に専念できる日が訪れたら、この「しずもり」の世界を描いてみたいと心に決めているのです。