もののあはれ」という言葉を説明しようとすると、言葉に詰まってしまうのではないか。

 

「もののあはれ」とは何か、と問われた時に、即答できる人は多くはないだろう。

 

そういう私も、なかなか短い言葉、ズバッと言い切ることは不可能に近いと感じている。

 

「もののあはれ」を定義するとは「詩」を定義することに近いのではないだろうか。

 

私自身「詩」とは何かについて説明しようとして、かなり苦戦した体験をしている。

 

こちらのページで「詩」なるものを定義してみたので、ご一読願いたい。

 

風花未来の「詩の定義」はこちらに

 

ここで「もののあはれ」を、辞書はどのように説明しているかを見てみよう。

 

もの‐の‐あわれ〔‐あはれ〕【物の哀れ】

読み方:もののあわれ

 

1 本居宣長が唱えた、平安時代の文芸理念・美的理念。対象客観を示す「もの」と、感動主観を示す「あわれ」との一致するところに生じる、調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの。その最高の達成が源氏物語であるとした。

 

2 外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感。

 

「わがアントニオは又例のもののあわれというものに襲われ居れば」〈鴎外訳・即興詩人〉

 

……デジタル大辞泉より

 

もののあはれ

 

もののあわれ(物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であるとされている。日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想である

 

……ウィキペディア(Wikipedia)より

 

本居宣長は「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」で、次のように述べている。

 

阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。

 

俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。

 

されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あわれといえることもおおし。

 

「石上私淑言」(いそのかみのささめごと)は、本居宣長が、もののあはれの説を基軸として和歌のありうべきすがたを論じた歌論書である。

 

これ以上は「もののあはれ」という言葉を定義しようとしても、それほど意味あることとは思えない。

 

理屈をこねくりまわすよりも、「もものあはれ」を感じとれる生活環境と心理状態を、ふだんから整えておき、「詩なるもの」を実生活に生かしてゆくべきだろう。

 

私は「詩心回帰」「まどか」という運動を続けているのだが、その理由は、一般社会において、あまりのも「もののあはれ」や「詩なるもの」が軽視されすぎているからに他ならない。

 

美しい日本語を大切にしたい。優れた詩作品を大切にしたい。

 

「詩なるもの」「もののあはれ」が最重要視されて当然である、そんな世の中になってほしいと切に願い次第である。