「幾時代かがありまして」というリフレインで有名な中原中也の「サーカス」という詩をご紹介します。
サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風(しっぷう)吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁(はり)
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯(ひ)が
安値(やす)いリボンと息を吐(は)き
観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
この「サーカス」は中原中也の代表作であり、多くの人たちが解説していますので、私はここでは、一般的な注釈などを省略して、私の想いを表白させていただくことにします。
主観的で理解しづらいかもしれませんが、その点はご容赦ください。それでは、始めます。
初めてこの「サーカス」という詩を読んでから、気が遠くなるほどの歳月が流れた。
時は、遠くから聞こえてくる潮騒のように優しく、そして残酷である。
先ほど「サーカス」を読み返してみて「まさか」という、気づきがあった。
「サーカス」のテーマを確かに感得できたのだ。
この詩に漂う心情は、郷愁などという生やさしいものではない。
中原中也は「サーカス」という一篇の詩によって「時空のゆがみ」を表したかったのだ。
「時空」とは物理的な時間と空間だけを指すのではない。「時空」とは精神的な時間と空間をも指す。
中原中也が自分が感じているもの(精神的な時空なるもの)を口にしてみたら「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」となって、ゆがんでしまった。
サーカスの空中ブランコ、それは、中原中也の魂のゆがみであり、揺れにほかならない。
このように私が書くと、あなたは戸惑われるだろうか? ご勘弁いただきたい。「サーカス」なる詩について、感想を述べようと思うと、こういう書き方しか、私にはできないのだ。
あと少しで終わりますので、どうかお付き合いください。
心の闇は深いけれども、灯りは見える。
その灯りは、気が遠くなるほどの時の流れる音を聴き、気が遠くなるほどの時の流れる様を見てきたに違いない。
その白い灯りを眺めている、中原中也という存在、それが自分ではなく、揺れているブランコ、ブランコのゆがんだ揺れ、時空のゆがみこそが、自分の正体だと中也は悟ったのではないだろうか。
中原中也は、生涯、魂と宇宙との調和を希求しつづけた。それは危険な賭けでもあった。夜、わずかな光を頼りに揺れる空中ブランコのように、中也は生きるしかなかったのか。
中也の諦めにも似た、運命への従順さが、危ういまでの美しさと、安らぎに似た静けさを私たちに与えてくれる。
詩人・中原中也、人間・中原中也の正体は、この「サーカス」を抜きには語れまい。