宮沢賢治の「眼にて云ふ」というをご紹介します。

 

眼にて云ふ

 

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明(せいめい)が近いので

あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草(いぐさ)のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

 

物語詩というユニークな形式が「明るい死」を鮮明に描き出す

 

童話(物語)作家でもあった宮沢賢治ならではの工夫が、この詩「眼にて云ふ」には見て取れる。

 

この「眼にて云ふ」は、物語と詩を合体させた「物語詩」だと私は呼びたい。

 

この詩を「物語詩」と呼び、「物語詩」独自の表現方法を分析することで、「眼にて云ふ」の魅力の秘密を浮き彫りにしてみたい。

 

タイトルが象徴する、この作品の面白み

 

病気のために、声に出してしゃべれないので、眼で伝える、訴えることから「眼にて云ふ」というタイトルになっているのだ。

 

もちろん、眼で伝えられることには限界があり、そのために生まれる医師と患者の「ちぐはぐ」な関係(距離感)が、この詩の重要かつ効果的な演出となっている。

 

重症感謝から話言葉で構成

 

もうそんなに生きられない、重症患者の語りで構成されていることが、まずもってユニークである。

 

患者(わたくし)から医者(あなた)に話しかけてはいるが、その言葉は口に出して言われているわけではなく、いわば独り言(独白)である点も、面白い。

 

詩というより、物語である

 

語りてである「わたし」も、宮沢賢治自身(わたし=宮沢賢治)ではなく、物語の主人公として描かれている。

 

つまり、設定(構成と展開を含む)が、詩というよりも、物語なのだ。

 

以下、6つの設定を明記しておく。

 

「眼にて云ふ」の6つの設定

 

人物設定:患者と医者

舞台(空間)設定:患者の寝室

状況設定:患者は病気のために口に出して話せない

時間設定:患者が死ぬ間際の短い時間

視点設定:患者の一人称視点と全体を客観視する神様視点

文体設定:患者のしゃべり言葉のみ

 

もちろん、物語のように書かれた詩も存在するし、この「眼にて云ふ」も詩と呼んで差し支えない。

 

しかし、詩というには、あまりにも、表現方法が間接的かつ客観的なのだ。

 

例えば、当ブログでも取り上げた、宮沢賢治の代表作である「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」は、全編、宮沢賢治自身の直接的かつ主観的なのである。

 

直接・主観は詩の基本であって、作者本人の想いや感じ方がダイレクトに表現されるから、「歌う」という詩の魅力の一つが生きてくる。

 

しかし、この「眼にて云ふ」は、間接・客観という物語(童話・寓話・小説)の基本が採用されているのだ。

 

物語だから、宮沢賢治自身と「わたし」の距離が生まれる

 

この「眼にて云ふ」が、ふつうに一人称だ書かれていたら、ずいぶん趣の異なる作品になったでしょう。

 

おそらくは、いまの形の「眼にて云ふ」独自の味わいが消えてしまい、作品として魅力が減退すると思われる。

 

「眼にて云ふ」の6つの設定の「視点設定」を見てください。

 

物語の主人公である「わたし」の一人称視点だけではなく、物語空間すべてを客観視している神様視点が加わっているところが、この詩の凄さなのだ。

 

物語であることに加え、神様視点も採用されているので、宮沢賢治と「わたし」との距離は、さらに離れることになる。

 

「臨死体験」や「解離性障害」にも似た、自己切り離し感覚

 

ツイッターで「眼にて云ふ」を紹介したら、友資さんから以下のコメントをいただいた。

 

幽体離脱してその場を俯瞰して見ているようでいて、同時に死にかけている自分の主観でもあるような、客観でもあるような、不思議な視点の物語でした。 宮沢賢治は実際に、そんな体験をしたのかもしれないですね。

 

いわゆる「臨死体験」の時に起きるという「幽体離脱」、この発想は核心をついている直観した。

 

当事者である自分を、少し離れたところから見ている、そういうことは表現者ならば、ひんぱんに経験しているけれども、その究極が「臨死体験」である。

 

また、いじめにあい、暴力をふるわれている最中に、空中からいじめれてている自分を見ている、そういうことも起こりうる。

 

それは「解離性障害」の一種とも呼ばれるのだが、優れた詩人(表現者)は、詩作活動の中で、自己の解離をしばしば体験する、ともいえるだろう。

 

創作活動においては、そうした心理状態および「自己を切り離して観察する視点」を「障害」と呼ぶべきではなく、「解離的心理状態」、あるいは「解離視点」と、私は呼びたい。いや「自己切り離し感覚」と言った方がわかりやすいかもしれない。

 

宮沢賢治と「わたし」との距離感こそが、この「眼にて云ふ」の生命線

 

もうすぐ死んでしまうかもしれないのに、主人公の語りには切迫感がない。何だか、自分の「死」さえも、他人事のようにしゃべっている。

 

だから、物語の雰囲気に「死」の暗さはなく、むしろ明るく、だから、最後の三行が効いてくる。

 

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

 

「永訣の朝」の朝で描かれた「暗く深刻な死」ではなく、どこか「おかしみ」さえも滲み出る「明るい死」があらわされている。

 

「死」を歓んでいる、自分の人生を祝福している「肯定感」があって、この物語詩を読む人の魂を救ってくれるのだ。

 

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