谷川俊太郎の「ゆうぐれ」という詩をご紹介します。
ゆうぐれ
ゆうがた うちへかえると
とぐちで おやじがしんでいた
めずらしいこともあるものだ とおもって
おやじをまたいで なかへはいると
だいどころで おふくろがしんでいた
ガスレンジのひが つけっぱなしだったから
ひをけして シチューのあじみをした
このちょうしでは
あにきもしんでいるに ちがいない
あんのじょう ふろばであにきはしんでいた
となりのこどもが うそなきをしている
そばやのバイクの ブレーキがきしむ
いつもとかわらぬ ゆうぐれである
あしたが なんのやくにもたたぬような
これは、ブラックユーモアか?
それとも、ホラー?
いやいや、単なる悪ふざけだろう。
これは、夢の描写かもしれない。そういえば、かつて私は、こんな夢を見たような気もする……。
というふうに、この詩「ゆうぐれ」から、さまざまな思いが広がってゆく。
「遠い感じ」「無感覚」「空っぽ」など、日常生活の中では、いつはまりこんでもおかしくないほど、常に日常生活と同居している状態である。
人生での最大の事件は「生まれること」と「死ぬこと」だ。
この「ゆうぐれ」において「死」は究極まで軽く扱われている。それは同時に「生」の軽視につながる。
この出口のない、夢のような空虚さから逃れる術は一つしかない。
それは、夢から覚めることだ。
だが、いちばん恐ろしいのは、夢から覚めた時、今度は自分自身の死体を見てしまうことではないのか。