室生犀星の詩に「きょうという日」があります。さっそく、全文を引用してみましょう。
きょうという日
時計でも
十二時を打つとき
おしまいの鐘をよくきくと、
とても 大きく打つ、
きょうのおわかれにね、
きょうがもう帰って来ないために、
きょうが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなった日にまぎれ込んでなんでもない日になって行くからだ、
茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ、
きょうという日、
そんな日があったか知らと、
どんなにきょうが華かな日であっても、
人びとはそう言ってわすれて行く、
きょうの去るのを停めることが出来ない、
きょう一日だけでも好く生きなければならない。
室生犀星は、どのような気持ちで、この「きょうという日」を書いたのだろうか。
通常はこのように作者の想い、気持ち、メッセージなどにつて感想文をまとめる。しかし、今回はなぜか、自分の想いを素直に語ってみたい。
いかに「きょうという日」に無頓着に生きてきたか、そう痛感せざるをえない。
自分なりに精いっぱい生きているつもりだが、月日は、歳月はまたたく間に過ぎ去ってゆく。
もっともっと、瞬間しゅんかんを、一日いちにちを、噛みしめるように暮らしたいと思うのだが、実際にどうすればそれがかなるかがわからない。
わからないままに、とりあえず、懸命が頑張ろうとするのだが、気が付くと、5年、10年くらいはあっという間にたってしまう。
「時間よ、止まれ!」と念じれば時が止まり、「時間よ、ゆっくり!」と言えば時がスローダウンする、という具合になればいいのに、そうはならない。
できることは、おしまいの鐘を大きく打つ時計のように、1日ごとに「ああ!」とか「おお!」とか大きな声を上げて「自分は今日という日を生きた、このこと自体が凄いのだ、たった私ってえらい!」と、オーバーアクションに自己確認するしかないのか。
この程度のアイデアしか浮かばないとは、自分ながらに情けない。
振り返ると、ある時期から、時間が過ぎるのが、急激に速くなったことに気づく。
それはブログを始めた時からだ。2005年から本格的にブログという「自分メディア」を始めた。
ブロガー、YouTuber、メルマガライター、ツイッタラー、インスタグラマーなどのことを「自分メディアクリエイター」とい呼ぶ。
簡単に言えば、2005年以降の私の暮らしは、毎日記事を書き、ブログに投稿する、この繰り返しである。
来る日も来る日も、記事を書き続けた。あの2011年の大震災の日も、ブログ記事を書いていたい。この「美しい詩の言葉」というブログに「言葉」に関することを記事を投稿したのを、今も鮮明に憶えている。
パソコンに向かっている自分がここにいて、外の風景だけが、ものすごい勢いで、初→夏→秋→冬と移り変わってゆく、眼がまわるくらいのスピードで季節を巡り、時は過ぎ去る
……これが私の人生だとすれば、あまりにも味気ないではないか。
人と実際に外で逢って話すことがなくなってしまう、これがブロガー(自分メディアクリエイター)の日常だ。
さまざまな工夫をして、人と逢うようにすれば、時間の流れる速度は遅くなるかもしれない。はたして、そうなるだろうか。
2021年も十日を切ってしまった。来年の目標は、時がゆっくり流れる人生に切り替えることだ。
時がゆっくりと流れる、それこそが人にとって幸せであり、「きょうという日」と良く生きることにつながる。
「遅いことは良いことだ」、この真実に、ブロガーになって15年も過ぎてようやく気づいた。
来年を、時が流れるのが急激に遅くなった年にすればいい。どうやら、来年は、私の人生の大きな転換点になりそうだ。